『遊行草子・彼岸鬼』天身供儀

 牛車の車輪がうっすら湿った泥土を跳ね上げる。その度に水気を含んだ音が幌を汚した。戦禍がありのまま残存する土地は、市が軒を連ね、賑わいを見せていた頃が嘘のように静まりかえり、どこもかしこも黒く染まりきっていた。宵に差し迫った夕空の方がまだわずかに明るさを保っていると言えるほどの地を這う闇は、稜線との区切りを明確に映し出し、あまり多くの言葉を持たない子供心にもなにか感じ入らせるものがあった。
「冬太、遊んでないで少しは手伝ったらどうだい」
 悪路で縦揺れの激しい牛車の中、蹄とぶつかり合う荷物の音に負けない声音で、年嵩の女ががなる。御簾にくるまり、じっと外を見張っていた、冬太と呼ばれた子供は、幌の切れ目に垂れ下がった御簾から突きだした顔に己のかんばせより一回り以上も大きい翁面を組み紐で頑丈に括り付けたまま、振り返った。首より下は御簾に隠れているだけに、面だけが不気味に薄くらい宙に浮いているかのようだ。長寿の亀のごとき長く白い顎髭に、皺の集合体で作られた達観の笑みを貼り付かせた面は、枯れ木のように細い子供の身体にはあまりにも不釣り合いで、面妖を通り越して滑稽そのものに見える。女を囲んで針仕事に精を出したり、道具の手入れをしていた舞女達は子供の悪戯と知って耐えきれず笑い声をもらし、悪さに拍車を掛けかねない、と無言で諫める女の一瞥をもらうと、わざとらしく視線を泳がす。芸事に長けた者の仕草というものは、普段の振る舞いすら芝居がかって見える。冬太は、一座の女主人でもあり、母親でもある女の顔を、面の隙間から盗み見た。舞台化粧でいかようにも化ける術を知っている女の顔は、元の造形こそ整ってはいるが、眉を剃り落としているせいかすぐには感情が読みとれない。しかし、雪解けの大地に似て、厚い化粧に守られた地の皮膚は蒼白く透き、そこに走る青筋と、木の実に似た大きな目を覆い被さるように寄せられる眉間の深さで、怒りの尺度を測るのを子供は知っている。おとなしく幌の内側に顔を引っ込めると、唇をとがらせて布張りの床に座り込む、弾みで大きな翁面がずれそうになるのを両手で押さえつけながら、面の奥でくぐもった声を上げた。
「だって母様、烏が屋根にたかるんだよ」
「そりゃあ、御免状が本物か確かめに来てるんだ」
 遊芸の徒と呼ばれる旅芸人は一カ所に長居しない代わりに、税も通行手形も必要とされない。荒ぶる神を鎮める芸を以て行く先々の多くは、疫病や戦災の爪痕が残る不浄の地。人が背を向ける場所にあえて赴き、土地を清める事の出来る異能者集団を国は手厚く保護していた。しかし、旅芸人を装って日銭を稼ぐ偽物の横行が近年目に付き始め、国家が承認した一座には証が配られるようになった。御免状と呼ばれる木札には、芸能の守護鳥・烏が刻印されている。そのせいか、旅芸人達は、烏を益鳥として神聖視する傾向があり、むやみやたらには追い払ったりはしない。
 目に付く所に掲げなければならないのを常としているせいで、移動の最中、御免状は麻紐で幌に括り付けられている。流麗で、難解な文字が書き付けられてはいるが、長旅で雨風に晒されてはありがたみの欠片もない。いまや通ってきた国を表す木札は十数個に増え、一座の場数を示す好例でもあった。しかし、牛車の揺れにつられて乾いた木と木のぶつかり合うやかましい音にばかりつい目がいき、知らぬ者が見れば十中八九、鳥避けだと勘違いされそうなそれこそが、由緒正しい遊行許可証だとは誰も思うまい。今にしても、守り神たる烏にもおもちゃにされている始末だ。
 女も、さすがに母親、子供が言わんとしている所は重々承知の上。けれども、他の者の手前、つい石頭な回答が口をついて出る。止めていた手が動き出し、頑なな締め口を解いた。束縛を解かれた面は、自重でぽとりと差し伸べられた女の手の上に落ちる。丁重に布にくるむと、素早く袂に仕舞い込んだ。
「間違っても石なんて投げるんじゃないよ。あたし達みたいな芸を売って暮らすながれもんにとっちゃ烏は神様の使いなんだからね。おまえの悪戯で商売上がったりになったんじゃたまったもんじゃあない」
女主人が仕切り布の向こうに去ると、針子に専念していた女達が、本来の滑らかな口を開き始める。
「冬太坊、へそ曲げてないでこっちおいで。一緒に花吹雪作っておくれよぅ」
「やだ」
「そんなとこに居たんじゃ穢れより先に風邪をもらっちまうよ」
「平気」
気を利かせた呼びかけにも、返ってくるのは手応えのない態度だけ、わずかな隙間から外を覗く、拗ねを含んだ小さな背中につれない空気を感じ取った女達は苦笑して、視界に姿を留めたまま、静かに手を動かし続ける。いくらもしない内に、木札をつつく硬い音と、烏特有の潰れた声が頭上から重なって降りてきた。
「あれあれ、カンカラカンカラと落ち着きがない鳥だ」
「まぁ確かに、夜だってのに烏が多いやなぁ」
「この有様じゃあ、仕方あるまいよ」
一人の女が流し目で御簾に遮られた外界を揶揄すると、つられてもう一人が袖口で鼻を覆う。わざわざ見ずとも、外がどうなっているかなど想像に硬くないのだろう。冬太は再び暖取り代わりの御簾にくるまって幌の外に顔を出した。女達の言っている事も、一理あると思いながら、外の世界を堪能する。
焦げ臭さをありありと残す焼けた梁、その根元には、肉が焼ける独特の臭気を伴って、人間の骸が道なき道に無数に積み重なり、烏が群がって柔らかい部分から真っ先につついているのを目の当たりにしては、所詮烏は悪食の害鳥に過ぎないのだと知る。残り物も、数日と経たない内に腹を減らしてやってくる獣におおかた食らいつくされるだろう。そして、綺麗さっぱり片付いた後、また一からやり直すのだ。疫病が流行った土地と、戦場と化した土地には、神が荒ぶり、人の憎しみと悲しみから、より多くの穢れが生まれるという。しかし、穢れを淘汰するのは、神を慰撫する自分達芸人などではなく、ただただ本能に忠実な自然そのものの気がするのも正直な所だった。
わずかな間に、薄紅色だった夕闇はいくつかの変遷を経て暗色に落ち着いた。闇は波音のしない茫洋とした海かと思うほど一面を覆うが、唯一木々の際だけがうっすらと、濃い墨ではいたような陰影を保つことで、ここがでこぼことした凹凸を持つ陸上なのだと知れる。
ちぐはぐな方向から吹き付けてくる風が、御簾を乱す。牛車の内側に灯された対の行灯の火がたちまち吹っ切れ、急なことに驚いて小さな声が上がる。気付いた者が火をつけようにも、風の勢いが止まず、火種が役に立たなかった。木がたわんで、羽を休めていた鳥たちも驚いたのか、慌ただしい羽音が聞こえてくる。千々に乱れた焦土の片鱗が宙に舞い、吸い込んだ喉や目を焼いた。
手の甲で涙のにじむ眦をこすり、再び目を向ければ、そこに、馴染み深い黄味の安油が放つ炎とはまた別の、紅を帯びた光。穢れを呼び込む目印、「ひとつ火」が灯っていた。
大人達は言う、昼を終え、夜を境にして現世に開くとされる異界の門から、無数の穢れ達がやってくると。闇に浮き、頼りない唯の揺らぎは、彼等を呼び寄せる不浄火なのだ。人もまた、そのひとつ火に照らされたが最後、穢れに魅入られ、とり殺されると言われていた。時折視界に蠢く、毒を孕む辰砂さながらの赤を纏う残像は、帚星にも似て、光の足は速く、迷い込んだ一匹の夜光虫の戯れさながらに目を惹くが、それだけにけして見てはならないものだと、身のうちが警鐘を鳴らし始める。けれども、邪気に当てられたのか、背筋は凝り固まったまま、頼りなげな炎から目が離せないでいた。
風が焼け野原を駆け、受け止める懐を持つ全てのものが、音を立ててあるものは朽ち、あるものはやり過ごしていく中、羽音でもなく、振り乱す樹木でもない、別種の音が耳をつき、そこで初めて闇に紛れるのを計算に入れたかのように黒い外套を着込んだ人が佇んでいるのに気付いた。背筋を張った精悍な体躯は、風向きの変化で貼り付いた外套の輪郭からでも容易に窺い知れる。怪しさは拭えないまでも、いずこからか現れる火事場泥棒や物捕りのたぐいだとはとても思えなかった。
指し示すように放られた片腕に乗った、たっぷりとした厚布の終着点の幕間わずかに、ひとつ火が揺れている。子供の手にも余る灯火は酸漿の赤い実に似て、守るように築かれた網細な葉脈の外殻と相まって、類似性を一層強くする。火種を持たずに燻る炎に照らされて露わになる、簪に似た豪奢で繊細な細工が施された弦の先には、目にしたこともない色彩の羽根飾りが風に弄ばれていた。
紅の炎は形こそ小さく頼りないが、周囲を照らす領域は広く、明度は高い。陽炎が立ちのぼる景色は歪み、はためく外套の黒には、さながら太陽に纏ろう虹彩のような紋様が布地に描かれていた。
手を眼前に突き出す。陽炎の膜が張った歪曲した視界に、ひとつ火は掴み取れるほど間近に肉薄して映っていた。手を伸ばすだけで足らぬというならば、筋を違えるまで指を広げようともした。重心がおのずと前にかかり、縁に置いていた片方の手から力が抜けてかかとが床を離れるのを、ぐいと襟首を掴んだ強い力が阻む。
「坊、早く中に入んな。そっから落ちても、拾っちゃやれねぇぞ」
「与市」
勢いに任せて倒れ込んだ小さな背中を懐に納めたのは、舞手の与市だった。消えてしまった火をくべる為に、女と自分しかいないこちら側までわざわざやってきたのだろう、支手と反対の手には簡素な燭台が握られ、灯り差しの種火が放つ淡い発光が牛車の中を柔らかく照らしている。頭に巻かれた装飾布の、肩口に垂れ下がった切れ端を引っ張って、彼の注意を引く。

「あれは、ひとつ火だ」
「さぁ、どうかな。彼岸の頃には、よく見る風景だぜ」
与市は本意のわからない笑みを浮かべると、舞いの稽古を付ける時のように切れ端にかかった手をそっと取り、一番離れた指を第一関節から、次に手首、肘、最後に肩、と片手で器用に順を追って関節を折り畳んで鳩尾の前に組ませる。そして、冬太の身体を抱えた姿勢で、ずっと暖取りに巻かれ、型くずれを起こした御簾を直す傍ら外の様子を盗み見ると、冬太に視線を戻して静かに御簾を降ろした。
「見な」

光の群れが漁り火となって荒れ野を回遊する。先程までは、空風が吹きすさぶだけの焦土だった土地の所々が発光し、全体が色味の薄い暖色に包まれていた。
積み重なって築かれた、死体の山。
 戦禍で親を失い、飢え死んだ子供達の側に、先程の朱色の炎が見えた。
横たわる、おそらくはまだ死んで間もない幾分綺麗な子供の死体のそばにしゃがみ込み、帯を解き、その腕をすくい取って丁寧に袖から抜く。帯の端を掴んで振り上げた腕に吊られて、巻き付いていた胴から勢いづいて離れていく。柔らかい、流れる雲のような無形の帯が、張りつめたかと思えば、次には波打ち弧を描く。身体から抜け出ていく魂魄の残滓にも見え、鮮やかに染め上げられているだけに、無闇にその形を想像させた。子供の脱力した頭を胸元に抱え込み、開いた手で一枚、また一枚と、幼い童子に湯浴みさせる母親さながらの慎重さで着物を脱がしていく。明瞭な衣擦れの音が、克明に耳に届くのではないかと思うほど、根気と時間をかけて続けられる作業は、もはや儀式に近い。飢えから来る者特有の必死さは、着物を拾う為に屈んだ黒い背から微塵も感じられなかった。
やがて、子供の身体から全ての衣服が脱がし取られる頃、ふいに外套が飛び立つ鳥の羽ばたきのように地表すれすれを這ったかと思えば、裸の身体に着せかけられた。おとがい辺りまでを大きな一枚布で巻かれた子供は胸に抱かれ、夜の闇と、日中の陰に隠れる、わずかでも損傷が遅れる箇所を雑然とする場から見つけだし、そこにゆっくりと横たえた。脱がし終えた着物は手早く膝の上で畳まれ、帯でひとまとめにされると、懐にしまわれる。
「元はどうだか知らんがな、生き抜くためならどこまでも堕ちていけるのが人間てもんよ。その正体を認めるも、認めないも人それぞれだが、坊、忘れちゃなんねぇこともある」
所詮は物取りなのか、と興味と関心で一杯だった頭が冷えていくのがはっきりとわかった。現実には、現実でしか対峙出来ない。幻想を抱くのは、罪深き世迷い言なのだろうか。
外套を脱いだ身体は、精悍な印象に変わりはなかったが、背を向けた姿勢の、耳の下ほどで切りそろえられた髪から覗く首筋と、肩のなだらかな線が案外に華奢で、まず第一に女であるのに面食らった。しかし、反面で納得もした。女でなければ、子供に触れる手の一つ一つに自然の理として慈しみが滲み出すはずがない。
ふいに、呼ばれたかのように俊敏な動きで女がこちらを向いた。まっすぐ垂れ下がった御櫛が翻り、空を切る。初めて正面から見据えた容貌は、確かに髪で隠した部分を除けば、端正な女の顔をしていた。顔半分を覆う簾のような髪は、強い風に簡単に持ち上げられ、右目にはまる、凝った組み紐で飾られた眼帯が見えた。
ひとつ火を灯した、一つ目の女。
「人間が、鬼になるんだ」

 闇を縫う光の塊が空に打ち上がった。一瞬の静寂を置いて、目を覆わなければ焼き付いてしまいそうな白熱の瀑布が夜空を覆う。逆雷と呼ばれる避難勧告用の照明弾は、焦土をたちまち余すところなく、持ち得る全てをさらけ出させ、地上で営まれている行為を光の下に晒す。
 あまりの光の強さに、死体に群がっていた盗人達は手をかざして目を守っている。その光景を、冬太は余市と、幌に遮られた牛車の中から見ていた。
 ふぅっ、と余市の吐息が、手元の種火を吹き消す。世界は一転してかげり、明度を無くした視界は、のっぺりとした黒一色に染まった。
 光の天幕が取りさらわれても、外気の動揺は消えない。打ち上げられる前と後では、比較にならない不穏なざわつきが、今この場になってようやく、地上生物で最も鈍感な人間に理解出来るほどになった。逆雷は、国土に等間隔に設置されている衛士の番所から打ち上げられたものだ。番所では、常駐の夜見使(よみづかい)達が絶えず疫に監視と警戒の目を向け、出現すれば授刀を受けた衛士が討伐する。

疫とは、ひとならざるもの。現世で生きる術しか知らないただの人には、魔除けは出来ても、存在自体を退治する事は出来ない。祓いや清めを生業とする一座とて同じである。疫を切り、封じられるのは、朝廷で特別に誂えた授刀を受けた衛士か、天浄と呼ばれる退魔術を使う天人といった限られた者達だけだ。

争乱の前触れが駆け抜けていく。速度を上げた蹄の音が、泥を勢いよく蹴り上げる。大の男に抱えられたままでも、十分に衝撃が伝わってくる。余市が警戒を促しに、牛車の前側に移動して行くと同時に、女達の手が伸び、冬太の身体を羽交い締めにして御簾から離れた安全な位置まで連れていく。
隙間から、ひとつ火の紅が、灯ったように見えた。誘っているのだ、ここにいると。
ひとつ火は不浄火、一つ目は彼岸に半身を置いた者の証。しかし、浸るのは半身のみ。もう半分がいまだ今生にしがみついているとしたら、どうだろう。腰に垂らした二刀が、闇の眷属の祓えの為に振られることはあるのだろうか。
傍らの女の手が目を塞いだ。幌の厚布を透過して入り込んでくる妖風に頬を撫でられるのも気にせず、冬太は自ずと、柔らかく心地のよい肉塊の下でまぶたを降ろした。

衣擦れの音がする。張りのある音は、払暁の空に思いの外高く響く。ほどくのではなく、硬く結んでいく音は、二、三度で止み、埃を払う小気味のよいものに変わる。その音に、耳を傾ける人はおろか、ものもなかった。風もいつしか止み、木々のざわめきすらも起こらない。来光の地上は、肌がひりつくほどの静寂に包まれ、俗世とは思えない神秘的な雰囲気を纏っていた。どこかで夜をやり過ごした鳥達が、素知らぬ顔で姿を現す。かしましい囀りすら、殺風景な単色の地を華やかに彩るようだった。
しかし、彼等の止まり木は枝などではなく、築かれた死体の山だ。朝を迎えれば、全てが振り出しに戻るという都合のいいまやかしはこの世に存在しないことを暗喩している。
どちらかと言えばくすんだ色に占められた、ただ一カ所、鳥達が寄りつかない瓦礫の陰に童子が立っている。傍らにはしゃがみ込んだ女が、よく見れば烏の塗羽色をした短い髪をかんばせに垂らして、童子の装束を整えていた。女の、二本の刀が差し込まれた、異国風の腰帯からは煙管がのぞき、実用性に乏しい、大層な銀細工が火皿の下で、女の動きに合わせ、揺れている。その形は、酸漿に似て、揺れは、中に吊された実をあやす揺り籠のようでもあった。
やや皺が寄り、埃っぽくはあるものの、不潔とは縁遠い若葉色の装束を見つけた童子が、長めの袖口から出た掌を開いたり閉じたりを繰り返すのを、女はじっと見ている。はたから見れば、親子か年の離れた姉弟のやりとりにも取れた。しかし、女が身につけている着物は、けして平民が着る類の衣服ではなく、機動性に長けた暗色の戦装束。右目の眼帯に帯刀の出で立ちは、仕草とは別種の、剣呑な気配すら醸し出している。
童子もまた、容姿に相応しからぬ佇まいで女を見遣ると、一瞬目を伏せ、無表情とも取れるが、けして否定的ではない目線を再び女に向けた。
傅いたままだった女は、ふうわりと笑みをたたえて、ようやっと立ち上がる。はずみで、腰帯に刺さった煙管の銀の酸漿が鳴った。童子はそれにやおら手を伸ばすと、先端に結ばれていた羽根飾りを解いて、女に手渡した。女は、丁寧に受け取り、再び跪いて、童子の髪の一房に結びつけていく。結び終わると、女が側に広げてあった黒い布を纏った。陰気ではあるが、戦装束はたちまち隠され、剣呑さは薄らいだ。童子は挙動を、女の背から差し込む、覚醒したばかりの身にはまだ慣れない朝日に、眩しそうに目を細めながらも見つめている。わずかな所作で羽根が踊るのがわかる、頬を撫でる柔毛がむずがゆくも心地よかった。

 朝日が昇って、しばらくも経たないうちの出来事。誰の記憶にも、あまり詳細に残ることのない些末なこと。
 しかし、後の神庭流座当主・神庭万象は、舞童の時分に遭遇した稀有な体験を『風妖ノ色味ヲ纏イテ地ニ堕ツ一切ハ目眩マシノ姿ヲ借リテ同胞ヲ征スルモ刀ヲ帯ビシ単眼鬼朱ノ鬼火ヲ手ニ彼岸ノ地ヨリ舞イ戻ルナリ』と文献に書き残している。
「妖しい風が吹き荒れて、ただでさえ黒こげであった土地が、一層闇に囚われてしまうのではと思った。眼を開けているはずなのに、まぶたを降ろしたままのような錯覚を受ける程の黒一色なのだから。しかし子供心に、恐れながらも好奇心が強く出て、大人の静止も聞かず、ずうっと外の世界を眺めていた。するとそこに、赤みの強い炎が灯ったのが見えた。小さな炎なのに、周囲を克明に照らし出す一つ火だった。黒装束の女性がその種火を持っていたのだけれど、女性は片目に眼帯をしていて、彼女もまた一つ眼だったのだ。一つというのは、不吉な数で、この世ならざる、彼岸のものを現している。一つ火を持った一つ目の女性は妖しの光に美しく照らされ、今日に至るまで、私の脳裏から霞んだ試しはない。もしかしたら彼女は本物の鬼で、これもまた魅入られたと言うのだろうかね。だからこそ、このような演目を、生涯をかけて創り上げてしまったのかもしれない」

演目の名は『彼岸鬼』、彼岸に半身を浸しながらも、今生にて人に仇為す化生を切り捨てる、業と情に翻弄される半人半鬼の物語である。

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