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「魔法をかけられた舌」

旅をするまで、世の中にどういう食べ物があるかあまり知らなかった。
母から料理を教わったことはないし、一家で外食というのもない。
旅を始めてから結婚まで期間があったからいいようなものの、それがなかったら、私は家庭で供される一般的なメニューも知らないままだったと思う。

結婚するとき、姑は山ほどレシピ本をくれたけれど、食べたことのないものを美味しく作るのは、私には難しかった。

好きな作家の一人に安房直子という人がいて、好きな作品もそれこそ山ほどあるのだけれど、その5本の指に入るのが「魔法をかけられた舌」だ。

腕のいい料理人だった父が急逝し、いきなりレストランを継いだ少年が主人公。
彼は、どうしていいかわからずにしょげていた。
するとある日、調理場で小人に出会い、舌に魔法をかけてもらう。

もう困らない。
彼がひとなめすれば、舌は即座に分析を始める。
ここには、何がどれくらいの分量で入っているか。
あと何をどれくらい加えればこんなふうな味に変えることができる、とか。

料理は「腕」ではなく「舌」なのだ。
だから、自分で食べて「美味しい!」と思ったものでないと、うまく作れない。
本やテレビのレシピを見て作ることは出来るけれど、レシピでは味がわからない。
出来上がったものが、果たしてこの味で合っているのか判断できないのである。
まずくはないけど、本当はもっと美味しくできたはずではないのか?という不安がぬぐえない。
私の舌には魔法がかけられていない。

私がよく作るのはこれ。


  「イェーガーシュニッツェル」というらしい。
ドイツ・オーストリア地方の料理だが、イタリアの「コトレッタ」がアルプスを越えたものだろうか。
「コトレッタ」はローマ風だとソースをかけない。
ボローニャ風だとトマトソースをかける。

探してみたのだが、旅をした当時、イタリアで「クリームソース」をかけたコトレッタを見つけることはできなかった。
アルプスのほうに行けばあったかもしれない。

「コトレッタ」は、フランスでは全然別の肉料理を指す。
イタリアで覚えたメニューを、フランスでそのままオーダーしたら、あれっ?となる。
隣り合っていても、同じラテン語から派生した言葉を話していても、やはり差異はあり、そこが面白い。

「シュニッツェル」はウィーン風だとこのまま食べる。
「イェーガー」は狩人のことで、「キノコのソース」がかかる、と思う。(私が食べたのは圧倒的にクリームソース。違うソースもあるかも。)

この料理、当地を旅しているときは、毎日のように食べた。
他のメニューを解読するのが面倒だったということもあるが、何しろお気に入りだったのである。

で、帰国して再現を試みた。
長い試行錯誤。
まだクックパッドで調べるなんてことはできない時代だ。

本来は仔牛肉なのだが、そんな贅沢は私が許しても財布が許さない。
親の敵のように叩いて叩いて薄くするのだから、安い輸入牛肉で充分なのだ。
叩くと驚くほど柔らかくなる。

軽く塩コショウしてから卵にくぐらせた肉に、市販のパン粉をさらに細かくしてからパルメザンチーズを卸して混ぜたものをコロモにして、フライパンのオリーブオイルの中に投入する。

焼くと揚げるの中間だ。

先に、オリーブオイルの中には、にんにくが投入されており、香りをつけてある。
ソースはしめじ。
いろいろ試したが、やっぱり日本人にはしめじだべさ。
安くて美味しい。

しめじにたっぷりの粒マスタードとバターをからめて、レンジでチン!(ここが素人らしくお手軽なので気に入っている)
フライパンに加えて、白ワインをかけて煮詰める。

生クリームと牛乳を加えたら、最後に香りとアクセントに黒胡椒を摺りいれる。

こんなに簡単なのに、ここまで思いつくのは、意外に大変だった。
どうやっても記憶の中の味に近づかない。
そう、粒マスタードを思いつくまでは。

「正しい」作り方や味付けはいまも知らない。
ただ、旅の土地で地元の人が集い飲む店で食べていたものの記憶がすべて。

今思うと失敗の日々も楽しい。
私は、けして料理好きではないが、たぶん実験好きなのだ。
魔法をかけられた舌はないが、好奇心だけはある。

物語の結末は、書かずにおく。

昔泊まった、坂の上の民宿。夕食は坂を下って食べに出た。

舌に魔法をかけてもらえれば最高だ。
でもときどき思う。

即座にわかってしまうことは、ぼちぼちとわかっていく楽しみを、あるいは唐突にひらめく感激を奪ってしまうことになりはしないか。

迷いの森の中で歩き疲れたとき、そんなことをふと考える。

そして、何でもかんでもお手本やマニュアルを示されること、その過剰な親切は、なんだかもったいないなぁと思うのである。

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