いろいろ人殺し
広島と長崎に落とされた原子爆弾は、仕組み?が違うものだったらしい。
私は想像している。
試してみたかったのよね、と。
新しい何かを開発する。
手に入れる。
改善する。
理論的には、申し分がない。
でも。
使ったことがないから威力がわからない。
使うような事態にならないのが望ましい。
それはわかっている。
もしも、のときの対策だ。
だけど。
人の心は・・・
それを使ってみたくなるんじゃないだろうか。
新しいおもちゃを買ってもらったら、とりあえず、それで遊びたくなる。
これまでの古いおもちゃも気に入っているけれど、とりあえず。
新しい何かを買ったら、それを袋のまま眺めているなんてことはできない。
新しいカメラを買ったら、試し撮りしたくなるじゃないか。
持っているということだけで安心できるのは、おカネくらいのもんじゃないだろうか。
いや、それとて、万一大金を手にできたら、やっぱりちょっと大盤振る舞いしてみたくなる。
道具というものは、使ってこそなんぼなのだ。
抑止力としての核・・・などというお題目に隠れた本心のどこかに、使ってみたい、という気持ちが潜んでいるんじゃないかって。
だって、たくさんお金を使って、知能も労力も使って、やっとできたそれら。
どのくらいの威力があるんだろう?
試してみたい・・・って思わないだろうか。
昨日の日向灘の地震は、いまは南海トラフの想定地域のはしっこに位置しているが、この注意情報云々制定の前には、外れていたそうだ。
専門家が研究討議して含まれたのだと思うが、制定以来初の適用となった。
「巨大地震注意」の臨時情報は、人々の一層の防災意識を喚起し、いざというときの減災に役立つのかもしれない。
その「いざ」は永遠に来ないほうがいいのだけれど。
岸田首相は、8月末までに憲法改正の論点を整理したいと言っている。
平和憲法である9条に自衛隊をつっこむつもりらしい。
「平和と安全を守るために」の範囲には、地震などの災害のほかに戦争も含まれる可能性がある。
「緊急事態条項」の草案には、かつての大戦の土台となった大日本帝国憲法の「天皇」を「内閣総理大臣」にそっくり置き換えただけという雰囲気がある。
制度も武器も法律も、作ったら試してみたくなるときがくるのではないか。
作った人、取り入れるのに尽力した人ほど。
人間って、そうだよね。
長崎の平和祈念式典には、G7の6か国大使が欠席するらしい。
イスラエルを招待しなかったことに不満ということだが、そもそもパレスチナ問題の原因を作ったのは英国ではなかったの?
原爆を落としたのは米国なわけだし、揃って欠席ということは、なんだか原爆使用を肯定しているかのようにも見えてしまう。
それは、今後の各戦争の抑止や、いまやっているところの停戦についてけして得にはならない気がするのだが。
長崎市の意図も意気も憤りもわかる。
でも、ロシアやイスラエルの非道ぶりもあるにせよ、私は個人的には、全員招待するのもアリだったなと思っている。
先に手を出したほうが悪いというのは序盤の話で、報復を重ねて殺し合いを厭わなくなったら、はたから見ればどっちも悪い。
でも命を賭して戦うほうには、それぞれの大義と正義があると思う。
でも。
それと。
それと原子爆弾使用とは別の次元の話じゃないのか。
敵味方の確執を超えたところに、原爆の悲惨さはあって「俺たちどんなに戦おうとも、こいつだけは使わないようにしような」という意思確認の場に、この平和記念式典を使うことはできなかったのか。
だって、原爆は、兵士を殺すために使ったんじゃないんだから。
長崎でも広島でも、日本の軍隊がそこで敵国軍を攻撃していたわけじゃないでしょ。
あきらかに、武器を持たない市民、戦争に行かない女性や子供や年寄りを殺すもので、いくら戦争でもそういうことはやめようよという合意は、暗黙なんかじゃなくて言葉や文章にして全世界に表明する。
なんてのは、私、お花畑すぎるかしら。
欧米の主要国が横並びで欠席ということで、万が一台湾有事が起これば、日本の味方はいない。
利用しようという国はあるだろうけれど。
だから、平和憲法に、自衛隊の軍事的性格を持ち込むのは反対だし、いまでさえ重要なことは国会審議にかけず閣議決定で決めてしまう政府に、緊急事態条項による権限など絶対に与えたくない。
日本はずっと「戦争に加担しない国」であってほしい。
武器製造売買などですでに加担しているのが歯痒くてならない。
私は、そういうことのために税金を納めているのではない。
今日も黙祷の予定。
冒頭の写真に「オフィーリア」(ミレー)を持ってきたのは、シェイクスピアの生没年が「イロイロヒトゴロシ」(1564-1616年)だから。
深い意味はない。
読んでいただきありがとうございますm(__)m