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常体で書く

学生時代から、講義を聴くだけよりゼミでのディスカッションのほうが好きだ。
講義・講演は、資料や原稿を読んでいるだけのはつまらないし、完全にアドリブならば話の上手な演者でないと、枝葉が広がりすぎて何が言いたいのかわからなくなる。
私のここのやっつけ文章のごとく、だ。

本業?を退職したいまも、お得意さんだけの副業依頼を受けている。
書き起こしの校閲と編集という仕事の中には、講演も多い。
だから、学生時代から遠ざかっても、あえて出向くことなく講義・講演に耳を傾ける機会は多いほうだと思う。
まったく興味のない内容や門外漢の分野もある。

かつては、講演の原稿を書くこともあった。
いまは昔より、どちらも、話すとおりの敬体の文章が好まれる傾向がある。
私個人は、自分が話すための原稿なら要点を箇条書きか、せいぜい話を広げすぎないように「まず」「次に」「最後に」のような流れを書く。
常体である。

昔から、手紙や業務メールのほかは、敬体の文章を書くのが苦手だ。
仕事を始めてからは一層、敬体で書いていると内容にかかわらず「講演原稿」のような錯覚が起こる。

「講演原稿」は、私の中では常に聴衆を意識するもの。
私の内なる世界ではなく、外の世界。
外の人にどう聞こえるか、どう感じられるかに気を遣うあまり、内容や表現に忖度が加わる。
すると、真に言いたいことから外れるような不安に襲われてしまうのだ。
あくまでも私の場合。

実際にひとさまの話す原稿は、その人の声や抑揚や、にじみでるキャラクターに左右されるので、書いた側のニュアンスがそのまま音声になるものではない。
むしろ、その思いの差こそ面白い。

だから、一言一句、話したとおりに講演録を作ってほしいとか、そのまま話せるように原稿を作ってほしいと求められるのが、本当は好きじゃない。
クライアントには言わないけど。

よそゆきっぽさの加減を考えるのがストレスになる。
要点や大体の流れさえわかっていたら、接続詞や敬語の使い分けくらいその場で自分で考えろよ、と思う。
言わないけど。

私のnoteは、心の代謝のためだから、どう思われるかより、どれだけ自分の真意を吐けているかを重視している。
ぶっきらぼうかもしれない。
「である」と書くと断定的な印象も与えてしまう。
「ほんわかさ」がない。
でも。
できるだけ「よそゆきっぽさ」を排除した、誰の役にも立たない文章を書きたい。


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