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コンパス ~女か虎か~

女は知っていた。
扉の向こうに潜むものの正体を。
知っていて、愛する男にこっそりと示した。
その視線で。

以下、フランク・ストックトンの作を要約。


身分違いの恋だった。
その国の法律では、重罪に値する。
女は、その国の姫君だった。

男は捕らえられ、競技場の中央に引きずり出される。
正面に王と愛しい姫の姿があった。

裁きのつけかたは、こうだ。
ふたつの扉がある。
ひとつの扉の向こうには、美しい女性が立っている。
男に見合った身分の女だ。

もうひとつの扉の向こうには虎。
たぶん、エサを与えていない。

男は、選択しなければならない。
それがすなわち罪の裁き。
女の扉を選べば、その女は自分の妻となり、罰を免れる。
虎の扉を開ければ、その餌食となる。

男は姫を見た。
その愛しきまなざし。
そして、姫が扉の向こうに潜むものを知っていると確信した。
姫が、合図を送ってくる・・・。

扉の向こうに女がいれば、愛しい男は、その女と結婚する。
虎であれば、命はない。
どちらにしても、姫の恋は叶わない。

さて。
姫が示したのは、女か、虎か。


男が選択をする。
扉が開けられる。

そこにいるのは。

女か。
虎か。


結末を読者にまかせる形式の話をリドル・ストーリーという。
私は、案外これが好きだ。
現実の暮らしには、印籠を出す黄門様ご一行などいない。
22時30分を過ぎても、ミステリーの真実は暴かれない。

ものがたりの結末はひとつじゃない。
ひとつの問いに関して、そのときどきで違った答えを求め、辿っていくのが現実だと思う。
少なくとも私の生きざまは、他人はともあれ、自分を納得させるためのご都合主義に満ちている。
本当は間違いだったかもしれないいくつもの迷いを罰のように積みながら。

私が姫なら、愛する男にどちらの扉を示すだろう。
私が男なら、愛する女の示した扉を、どう解釈するだろう。

何が嘘で、何がそうでないのか。
真実は、必ずしも人を幸せに導くとは限らない。
いや、それを見極めようとして、裏の裏を読むことが、もはや虚しい行為なのかもしれない。

女か、虎か。
その答えは、ときとして、自分の心の迷宮を探検するコンパスになる。


この話を知ったのは、もう20年も前になる。
そのとき私は、ほかの女と結婚するか虎の餌食になるか以外の第3の選択を考えた。
どういう展開をすれば、男と姫が結ばれるハッピーエンドを迎えられるかをあれこれと想像した。

しかしその後、父と兄と母の生き死にについて、私自身が即断を迫られる局面を経て、この男はどちらの扉を選んでもそう悪いものでもないと思うようになった。

姫との愛に殉じて死ぬのもひとつ。
姫に絶望を与えても、生き永らえて、それぞれが別の幸福を見つける可能性に賭けるのもありだろう。
たとえ虎が襲ってきても、死ぬのは自分なのだ。
自分の判断や差配で、愛する者が死ぬわけではない。

延命による父の植物状態を承諾し、89歳の母に心臓手術を受けさせ、まだ若い兄の抗がん剤治療断念を促した。
どれもみな、時間の猶予のない判断だった。
私の差配が3人の家族の命を左右した。

あれから、私のコンパスは、ある一定方向を向いたままだ。
この男の迷いなんか「緩い」「甘い」と感じてしまう冷酷な私になった。


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