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無為の幸福

昨日、一昨日ほどではないが今日も暑い。
週に3~4日は出勤とリモートの半々で正業、2~3日は在宅で副業をしている。
どちらも目いっぱいになると休みがないが、介護が終わったいまは、それも受け入れている。
しかし、加齢による体力の衰えもあるので、できれば週に1日は休みたい。
副業は個人で受けているので、案件の急ぎ具合によっては徹夜もする。
徹夜明けもできれば休みたい。
最近は、10時間くらいずっとディスプレイの文字に集中していると、目がチカチカして読めなくなるし、腰も痛い。

今日は、めぐりあわせで、何の予定もない1日となった。
忙しいときは、無理やり時間をやりくりして、どこかの間に家事を突っ込むのだが、仕事をしない日は家事もやりたくない。
やりたくないことはやらなくて済ませられるようになったことが、家族をすべて失ったことの代償だ。
何もしない日は、本当に何もしないというのが、いまの私のスタンスになっている。
電話にも出ないし、来訪者にも対応しない。
自分の命を保つための最低限のことしかしない。

昔の私は「手持ち無沙汰」に耐えられない性格だった。
すこしでも時間があると、何もしないのがもったいないと思ってしまう、いわゆる「貧乏性」。
仕事を退職したり、育児や介護が終わった友人の中にも、同様の人が結構たくさんいて「夢中になるものを見つけたい」とあれこれ挑戦している。

私はきっと、これまで「やらなければならない」からやってきただけで、根っこのところは「怠け者」なのだろうと思う。
母が逝ったタイミングでコロナ禍となったのもあって、友人たちのように活動的にはなれず、週の半分以上を自宅に引きこもっている。
仕事のないときは、何も生み出さない暮らしだ。

何にも夢中にならなくていい。
ただぼんやりと、だらだらと、時を過ごすのでいい。
それを幸福と感じている。

世間の「無為」に対する評価はいささか低すぎる。
そして「無為」=「退屈」であると決めつけてしまうのはあまりに短絡的だと思っている。

時雨まではまだすこし時があるようで、蝉の声が聞こえたり止んだりを繰り返している。
日が射すと声は大きくなり、雲間に遮られると止むように思うが、気のせいだろうか。
そんなどうでもいいことに気持ちが向くのがすこし嬉しい。

世の中、たいていのものはお金で手に入れることができる。
お金で買えない幸福もあるなどという説教は願い下げ。
でももし、そういうものがあるとしたら、生きていくのに必要のないどうでもいいこと、役に立たない(お金儲けにつながらない)知識や情報を自分で探したり見つけたりできる暮らしの中にこそ。

だからきっとこうして、1円にもならない文章を書いているのだろう。
そして、方向性や価値観の違う人には申し訳ないが、私は「〇〇のための〇つの方法」みたいな話にはまったく興味がない。
よそのサイトも含めて、どんなに多忙な日もほぼ毎日、割と長文のブログを書き続けてもう17年になる。
一貫しているのは「役に立たないブログを書きたい」ということ。

「午前中
 なにをしていたか
 忘れてしまった
 そんな
 人生の午後がいい」

読んでいただきありがとうございますm(__)m