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【短編小説】習作・夢の話・神社  もりたからす

私は小学生の姿で、早朝の境内に立っていた。曇天。集団登校の待ち合わせは石灯籠の脇と決まっているのに、班の仲間は誰も来ない。

斜向かいの八百屋から出てきた店主が、大銀杏の先端めがけ、空砲を放つ。スズメとヒヨドリが一斉に北東へ飛び立つ。

私はなぜだか彼に、花を贈りたいと思った。しかし境内にはヤマゴボウの実ばかりが成り、タンポポ一つも咲いていない。

振り返ると、石段の先、神社の中で独演会が始まっていた。板敷の客席に並ぶ座布団は、どれも私のランドセルと同じ色だった。高座の噺家はよく肥えていて、こちらの着物は、私の傘と同じ色。

それで不意に、天気のことが気にかかる。午後から降ると聞いてはいたが、何色の雨かを確かめなかった。

一人で落語を聞く客は、どうやら私の父だった。父は一年と八日しかなかった五十代の姿であぐらをかき、何かにひどく怒っているようだった。

その後ろ姿を見ただけで私は恐ろしくなり、公民館の方へ駆け出す。

しばらく行くとあちらから、同級生のTが歩いて来た。彼は大人の姿だった。旧帝大も済ませたようだ。私はこれから高校受験と大学受験に失敗しなければならないのに。Tは私を下の名で呼び、笑顔で右手を差し出した。

「それで、君は将来どうするの?」
「水泳部に入るよ」

私は嘘をついた。幼い私が数年後に進学する、そして立派なTが十年前に卒業したあの中学校に、そんな部活は存在しない。

Tは左手の腕時計に目をやると、気の利いた挨拶を残してすぐそこの実家に引っ込んだ。グランドセイコー。大きな平屋の縁側には彼の祖父が腰かけていて、かつて目の前で死んだ戦友をいつまでも悼んでいる。

私の祖父は戦争に取られなかった。祖父の長兄は大陸で大砲を引っ張っていたそうだ。

私はそのまま西へ向かった。とびきり美人で性格の悪いCちゃんの実家を過ぎ、麻婆豆腐が名物の中華料理屋を越えると、県道の向かい側にキャンパスが見える。

一番近い銀色の五階建てから、水が音を立てて噴き出していた。

私は傘をどこかで手放していた。そんなことをしてはいけなかったはずだ。初め私の前面が、やがて全身にかけてが、どうしようもなく濡れていく。

泣いてどれほど悔やんでも、近頃では、天気予報は外れない。



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