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3.11に思う。

10年前の3月11日、都心に勤めていた私は、充分に歩ける距離の自宅へ帰ろうとしたが、道はどこもかしくも人で溢れていた。交通機関はストップして、皆疲れた顔をして徒歩で帰宅していた。人混みの中、大きな荷物を抱えていた老人がいた。その人の荷物を持って家まで送り届けると、田舎から送られてきたという林檎を渡されたのを覚えている。

2カ月後、私は石巻市に立っていた。公務員として被災地の復興支援にやってきたのだ。大震災の5年前、私はその近隣に住んでいたが、町は一変していた。娘としばしば訪れた日和山公園という高台。その南斜面側には、あの焼け焦げた門脇小学校がある。そこから海辺までの平地は見渡す限りの瓦礫の山になっていた。しかし公園の北側の高台は全くの平穏、日常がそのまま続いていた。津波が届くか届かないか、その紙一重が地獄と天国を非情にも分けていた。
石巻の西南に野蒜という地域がある。波に洗われた駅舎が何度もTVに出てきたところだ。そこは瓦礫の石巻とは正反対に一切が津波で消失して、全く何もない荒野になっていた。家も畑も神社もすべてない、道路さえない。ただ、家族とよく訪れた温泉ホテルの鉄筋コンクリートだけが、ピロティー化してポツンと建っていた。
あまりの非日常さに、逆にここには人に営みがあったのだということを痛切に思い起こさせられた。公園で出会ったあの母子は、温泉に居た気さくな老人はどうなったのであろうか。
娘をかわいがり面倒を見てくれた人の名前が、地元新聞の死亡者リストにあった。なぜあの人が亡くなって私がここに立っているのか。不思議で仕方がない。

復興支援の仕事の間、被災者のために無料開放した浴場の運営も行っていた。日本人はやはりお風呂が好きなのだ、みんな笑顔で入浴していた。悲しみはあるが、生きるためには日々の笑顔が必要だ。
誰が置いたのかはわからないが、脱衣所に1冊のノートがあった。そこには入浴できることの喜びと感謝がつづられていたが、いくつか忘れられない文章があった。

「けんかして別れた朝、それが最後だった…」
「高齢者施設で救えなかったあの方。このお風呂を体験させたかった。涙が止まらない。」

最後まで手を尽くして救えなかった人に後悔があるのなら、悔いを残した別れ方をした人に後悔があるのはなおさらだと思う。でも、だからこそ救いがあるのだと思いたい。歎異抄。

大陸岸にあるこの弧状列島は、古来より常に災害に襲われてきた。だから日本人は和をもって貴しとし、勤勉に働き、困難を乗り越える術を身に着けてきたのだろう。本より生物は地球上の幾多の大変動により絶滅しかけ、その度に進化をとげて、人類が今ある。
女川にはこんな横断幕が架かった。「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」小6の言葉だという。子供はその生粋の感性で本質を見極めているのかもしれない。
生命がその身命を賭して進化してきたのなら、あの人は、次の進歩のために亡くなったのだと信じたい。新しく生まれ変わった人類に、あの人は生きていると思いたい。
もう10年なのか、まだ10年なのか。あの大震災後、私達は少しは進歩したのだろうか。

今日、生きて食べて、寝ることができればそれで充分なはずだ。傍らに家族がいればこの上ないだろう。でも私たちは日々何をしているのだろうか。大事なことは、効率よくお金を儲けることでも、他人にマウンティングすることでもないはずなのに。
未曽有のパンデミックだと言いながら、本当に為すべきことをしているのだろうか。

明日の笑顔のために、今日は静かに心の半旗を掲げていたい。

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