見出し画像

認知症を患っていた祖母が亡くなり、かんがえたこと。

トレーナーになろうと思ったきっかけは祖母。

私の祖母は認知症を患っていた。

68歳頃から症状が出始め、79歳の時に転倒し骨盤の骨を折り、寝たきりになり、ずっと住んでいた家を離れ、施設に入ることになった。

骨粗しょう症でもあったため、ころんだだけで骨盤の骨が折れてしまった。
寝たきりになってから認知症は一気に進行をはやめた。

2020年8月14日、とうとう家に一度も戻ることなく、祖母は息を引き取った。

祖母が骨折した当時、私は高校3年生だった。
見舞いに行くたび弱っていき、私のことが分からなくなり、ついには目を開けて話すことさえできない状態が長く続いた。

食事時に見舞いに行った時、
「お兄さん、お昼まだ食べてへんのやろ?食べ?」
と言ってくれた時は、

とうとう忘れられてしまったな、という悲しさ半分、祖母の変わらぬ優しさに対しての感動が半分だった。


それが祖母の最後の9年間である。


私がトレーナーになった理由は大きく2つあるのだが、そのうちの1つが祖母に対する想いである。

もし、運動する習慣があったなら。
もし、栄養に対する知識があり、骨粗しょう症になっていなければ寝たきりになることもなく、もう少し健康寿命を伸ばせたのではないか。


大学生のとき、アメリカのグランドキャニオンへ旅行に行った。

フィットネス大国であるアメリカでは、80歳を超える女性が軽い崖を登っていた。

私はちょうど同い年くらいだった自分の祖母と、そのアメリカの女性を重ね合わせてしまった。

崖を登り旅行を楽しめる老後と、施設で寝たきりの老後とを。


出来るだけ体力が落ちないうちに、若いうちに、運動する習慣と栄養に対する知識を身につけてほしい。
それが自分や、自分の大事な人の健康で自由な未来の時間を守ることになるから。

それがトレーナーになってフィットネスや知識を普及させようと思った理由である。

どれだけ相手の幸せを願う気持ちからでも、課題の分離は必要だと気づいた。

上に書いたような思いがあって、トレーナーになった。

祖母の死に直面し、両親の衰えも感じたので、両親に対してより口酸っぱく

「トレーニングしなよ、酒はほどほどに、タンパク質とりよ。」

「今のうちにトレーニングとかしとかんかったら脳とか筋肉衰えてまうで」

と訴えた。大事な人に将来の健康で幸せな人生を送ってほしいという思いからだ。


すると母に「そんな風に言われるのは嫌や」と言われた。

そこでハッと気づいた。

相手の将来の健康のため、幸せな人生のためとおもって言っていたのだが、

これは、子の将来を案じて無理やり勉強をさせようとする親と一緒ではないか。勉強しろと言われてしたくなる人は珍しい。

これで運動のやる気や健康行動のやる気が下がってしまっていたら、自分がよかれと思って伝えていたことのせいで両親を健康から遠ざけることになっていた。

自分のトレーニングや仕事、勉強でも感じていたことだが、やりたいことから義務に変わった瞬間、人のモチベーションは下がる。

心理学者のアドラーが提唱している「課題の分離」が、見事にできていなかったと実感した出来事だった。

「課題の分離」とは、「その行動によって最終的に責任を追うのは誰か」と問い、それが他者である場合にはその課題に介入しないという考え方である。

両親の幸せを願う気持ちから運動をさせようと躍起になっていたが、最終的に行動の責任を追うのは両親であり私ではない。

「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」

まさにこの言葉通りである。

私にできることは、健康の知識を発信すること、トレーニングの効果を伝えること、言ってくれればいつでもサポートはできるということを伝え続けること。そのあと、健康的な習慣を行うかどうかは相手が決めることである。

子に対しても、親に対しても、パートナーであっても、どれだけ大切な人であっても、よくもわるくも他者の人生を背負うことはできない。その人の課題はその人が取り組むしかない。

「病気、衰え=悪いこと」という思い込みを持っていたことに気づいた。

たしかに、歳をとっても健康であるに越したことはないだろう。だが、あまりにも「老化=悪」「病気=悪」という固定観念が強すぎると歳を重ねるごとに不幸せになっていくだろう。

物忘れが出てきた時に、白髪が出てきた時に、シワに気づいた時に、ひどくショックを受けて落ち込むだろう。

生物である以上、年を重ねるにつれて老いることは誰もが経験する自然なことである。死も自然なことである。

その事実を受け入れた上で、少しでも元気で過ごす期間が長い方がいいと思ったら、健康習慣に取り組めばいい。


自分自身が、認知症や病気について悪いことだという思い込みが心のどこかにあったとおもう。だから、親に「健康的な食事しないと認知症になってしまうよ」などと言っていたのだろう。

確かに認知症を含め、あらゆる病気や怪我は「不便」かもしれない。
しかし、「悪いこと」ではない。

そして、当人も病気になりたくてなったわけではない。運が悪かったのかもしれないし、無論、日々の習慣が不健康だったという原因はあるかもしれないが、肺がんになろうと思ってタバコを吸いまくる人は少ないだろう。

「病気を抱えている=悪」と捉えるとかなり生きづらい。


やはり、皆、不便なことは避けたいだろうと思うので、その予防はしておくといいと思うし、その点知識は重要だ。

しかし、なってしまったらなってしまったで、「不便」だが「悪いこと」ではないので、自分自身を責めないでほしい。物忘れが始まって、情けないとおもわないでほしい。

ある種、自然なことであるし、責めても脳細胞は増えない。「不便」が嫌なら、運動すれば脳細胞は増えるのでそういう建設的なアプローチを取った方がいい。

周りの人も「認知症=悪」と捉えて責めないでほしい。

認知症の方が身近にいると、苦労や心配が多いのもよくわかる。

しかし、一番悲しくなり、迷惑をかけてしまったと罪悪感にさいなまれ、でもどうすることもできず辛いのは、認知症を抱える本人だと思う。

以上がまとまりもなくとりとめもないけれど、祖母の死が気付かせてくれたこと。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?