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子供の教育で親が与える些細な "矛盾" が生涯の "トラウマ" になってしまう可能性

注意
*こちらは『読めばうつ病が良くなる』などと謳ったハウツーのようなものではなく、一個人の経験を通した価値観、考え方のお話です。
正解なんて存在しないので、記載されたことを鵜呑みにするのではなく、そこから自身の考えで行動してください。
*少しでも気分が前を向けるように、と願って記載を心掛けますが、僕自身メンタル不安定で当たり付くような文面になっていたら申し訳ありません。


①親という存在について

 親というものは、皆さんからしたら何でしょうか?
 家族、一番信頼できる相手、人生における指針、色んな考え方や向き合い方があるかと思います。

 上記、注意事項にもありますが、僕個人の考えが正解ではありません。
 あくまで、「僕はこう考えてる」と、捉えて頂けると幸いです。

 僕にとっての『親』という存在は、一人の人間です。

 意味が分からない、もしくは、何故そういう捉え方になったの?という経緯について、次項より説明していきたいと思います。

②少年期は親の言葉が全て

 ここで差す少年期ですが、小学生~中学生を差します。

 例えば、親から「ピーマンは残したらいけない」と言われたら、「ピーマンは残したらいけないんだ」とインプットしますよね。
 それが、『嫌いで食べたくない』とか、そういう話ではなく、『ピーマンを残してはいけない』と考えるようになると思います。

 では、「パセリは食べなくてもいい」と言われたら、「パセリは食べなくてもいいんだ」と考えますよね。

 普通のことじゃない? 小泉構文? と思われた方。

 パセリも立派な "野菜" です。

 よく、「どうして食べ物を残してはいけないの?」と聞く子供に対して、「栄養バランスの為、ピーマンはレモン果汁の約1.5倍量のビタミンCが含まれ、ビタミンCと呼ばれる栄養素は人体に最も必要なものだから」と、答える親って多分存在しないですよね。(というか、ここまでの情報を知っている人すら少ない気がする。)

 代表的なアンサーとしては、同時に人の温もりを育めるように、『農家さんが汗水流して頑張って育てたお野菜なのよ』などと言い聞かせるかと思います。
 まあ、単純に「好き嫌いはダメ!」と言う極論ママも多そうですが。

 ただ、"パセリも" 『農家さんが汗水流して頑張って育てたお野菜』なんですよね。
 そうです。揚げ足を取っています。

 話の脱線を戻しますが、どこかのご家庭によっては、『パセリも残したらいけない』と育てる親もいると思うし、逆に『多少なら食えないモンがあっても普通だよ』と、必要最低限のバランスは配慮されてるご家庭もあるかも知れません。
 し、「お前はこれでいい」と、カップラーメンだけを毎日机に置かれるような環境の人もいるかも知れません。

 ここまでお話したら分かるかと思いますが、『各ご家庭の親の言葉が、少年期の考え方の指針を構築する』と考えています。

③親の誤りに対し混乱

 人間という生物で、日本人として生まれた方は、必然的に育成をされる環境は、主に家庭か学校かと思います。

 そんな中、小学生の頃に、友達を複数人集めて議論ばかりする青春時代を過ごす人は少ないかと思います。
 僕は、家ならスマブラかマリカー、外ならサッカーや鬼ごっこをしていた記憶が強く残っています。

 もちろん、友人関係を構築する上で、何も学びが無いなんてことは思っていませんし、むしろ、その中でないと育めないモノも数多く存在し得ると考えてはいますが、"一般常識" を焦点に当てた時、一番指摘を受ける(悪さをして叱られる)場所は、家庭、つまりは『親』かと思います。

 子は親を見て成長する、と、よく聞く言葉かと思いますが、逆に、親くらいしか成長材料がない、とも取れるかと思います。

 その場合、『子にとって親は正解』になるんです。
 学校の先生が「多少なり好き嫌いがあるのは個性」と言おうが、家庭で『好き嫌いは絶対ダメ』と教育されれば、『ダメ』なんです。

 その中で、「お父さん、トマトは苦手なんだよね」と、トマトを残すお父さんがいるとして、子供は「でも、ママが好き嫌いはダメって言ってた」と指摘すると、「パパは大人だからいいんだよ」と誤魔化すかと思います。

 そしたら「大人は多少好き嫌いをしても良い」と、ここまでハッキリ定義付けられることはないかと思いますが、やんわりと、そんな雰囲気で、子供の脳には残るかと思います。

 好き嫌い程度なら受け入れられることでも、例えば、パパとママが喧嘩をし、「パパがママに暴力を振るってしまう」「ママがヒステリックに物を壊してしまう」など、子供にとって『受け入れられないこと』を目の当たりにした時、子供の脳は混乱します。

 食べ物の時とは違い、「大人だから」とは思えない、という話です。

 「事情がある」「理由がある」「誤解がある」と、子供の脳では受け入れられず、『何が正解なの…?』と混乱した結果、迷子になります。

 迷子になった思考は、そのまま "トラウマ" として強い印象を残し、80%ほどの正解を持ちながら、20%ほどの不安を抱えて成長します。

④大人になって分かること

 人間関係も、出会いや別れ、異性との交際、先輩後輩関係、様々な環境を経て、大人へと成長していく中で、少年期よりも『親』から学ぶことは減っていくかと思います。

 そして、数年という時を経て、ようやく『あの時のお父さんは仕事のトラブル等で余裕が無くなってしまっていたんだ』などと認識できるようになります。

 しかし、そう認識しても尚、残るものがあります。

 それが " トラウマ " です。

 認識・理解していても、子供の脳に強く焼き付いたトラウマと言う悪印象は、言葉で意識しても、無意識の中で恐怖します。

 僕にも、そう言ったトラウマは数多く存在します。

⑤僕の見解

 そうして、僕が辿り着いた認識の仕方が『一人の人間』でした。

 大人・子供、と、分類される言葉が存在しますが、「大人だから正解」「子供だから不正解」ということは存在しません。
 当然、大人の経験に比べ、子供の些細な経験の中で、「他人を傷つけてしまった」ことで叱る行為は、至極大切なことだと考えています。

 僕の話したい論点は、大人・子供という認識をするのではなく、『全員が平等の一人の人間』と考えることで、「自分にとっての正解」と「親にとっての正解」が、『食い違っている場合もある』と思えるようになった、というお話です。

 この文章も然りですが、「僕の見解」があるように、皆さんにも『一人一人それぞれの見解』があります。
 「誰々がこう言っていたからこう」というものは存在しません。

 人が人を殺さないのは、「法律で禁止されているから」ではないし、「一般常識だから」でもなく、『全員が不幸な気持ちになる』からです。

 人を殺さない人が天国に行けると神様がどこかの釈迦に公言しているわけでもないので、本当の正解なんてものは存在しません。

 では、『親が正解』ではなくなるし、『誰かが正解』でもない訳です。

 自分が言われたり、経験する中で、大切だと思う感情が正解だと、僕個人としては考えています。


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