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僕らが見つけることのできる小さな宝物

 教訓のない物語が好きだ。あるがままに、自然で、ありきたりな物語。しかし、そこには確かに個性があって、偶然河原で光る小石を見つけたみたいに心の片隅の小さなスペースに大事にしまっておくことになる。

 J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』

 9つの物語は人生の道すがら、ひょっと出てくる懐かしい看板に見たいにあなたの心を捉えるかもしれない。

 例えば『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』『テディ』では、昔なじみの感情や哲学が綴られていて思わず顔を赤らめてしまう。

 部屋に椅子がないことを――クッションがあるだけだと言う――ムッシュー・ヨショットは謝りかけたが、僕はすかさず、僕にとってそれは天の賜物に等しいのだという印象を与えようと努めた。(実際、椅子は嫌いなんですとまで言ったと思う。とにかくものすごく緊張していたから、息子の部屋は昼も夜も水が30センチたまっているのですと言われたとしてもワッと嬉しそうに叫んだことだろう。きっと、僕には珍しい病気がありまして一日八時間足を濡らしておかないといけないんです、とでも言ったにちがいない)

ド・ドーミエ=スミスの青の時代

 これは主人公が初めての住込みの職場で初めて部屋を案内されたときにやり取りだが、緊張感や雇用主との距離感もさることながら、何より自分を実際以上に良く見せようととかく舌を回している様子が、面白おかしくも共感できてしまう。若い時分の自尊心や自己顕示欲の描き方がまるで風景描写と同化しているみたいに自然で、すらすら読み進んでしまうのに感情のしこりや余韻はしっかり残してくる。

 「僕は両親に対してすごく親和性を持っているんです。2人とも僕の両親なんだし、僕たちはみんなたがいのハーモニーの一部なんだし」とテディは言った。生きているあいだは2人に楽しい時間を過ごしてもらいたいですね……楽しく過ごすのが好きな人たちですから。でも2人とも、僕とブーパー――って僕の妹ですけど――をそういうふうには愛していません。つまり、僕たちを少しずつ変えつづけるのでないと愛せないみたいなんです。僕たちを愛するのとほとんど同じくらい、自分たちが僕たちを愛する理由を愛していて、たいていのときはむしろそっちをより愛しているんです。そういう愛し方、あまりよくないですよね」

テディ

 「僕の腕? なんで?」
 「とにかく上げてください。一瞬でいいですから」
 ニコルソンは一方の前腕を、肘掛けから4、5センチ上げた。「こっちでいい?」と彼は訊いた。
 テディはうなづいた。「あなたはそれをなんと呼びますか?」
 「どういう意味だい。これは僕の腕だよ。一本の腕さ」
 「どうしてそうだとわかります? それが腕と呼ばれていることはあなたも知っています。でもどうしてそれが腕だとわかります? 腕だという証拠はありますか?」

テディ

 子供のころに持ち得る思考や感情を、よくもここまで軽快にユーモアを含んで会話に落とし込めるものだと思う。テディの話し相手になっていた男は、初めは興味を持って面白く聞いていたものの、段々面倒になっていく。頑迷で強固に凝り固まった「哲学」が、その若さ故に犯しがたい聖域になっていることを感じ取るのだ。正直、オチなんてどうでもいい。こういうシーンに立ち会えることが、物語を読むことの醍醐味だと思う。

 ちょっとずれた会話、オチや筋道のない会話が思わぬ方向に進んでいく面白さ。『エスキモーとの戦争前夜』では、少女がまったく本筋とは関係のないどうでもいい会話から精神的な成長に行き着く。普段使いの道から少し脇道に逸れる冒険をしていたら、いままで知らなかった近所のちょっと特別な風景に辿り着いたみたいにして。『コチカネットのアンクルヴァギー』も個人的には好きだ。ただの思い出話を大学時代の友人とだべっているだけなんだけど、最後に思わぬ感傷が発露する。先にオチなんてどうでもいいと書いたが、結末の出来によって最後に残る余韻の大きさみたいなものはやっぱり変わってしまうんだなぁ(掌返し)。

 オチで言えば、巻頭の『バナナフィッシュ日和』は美しい。本当に何でもない、良く晴れたバカンスの一幕なんだけど……。物語に波があるわけじゃない。ただ淡々と、晴天にきらめくリゾートで一人の男が最後の日の陽光を享受する。人によっては、は? となるだろう。僕も説明しろと言われても困ってしまう。ただ、どうしてか美しいと感じた。あるいは、そこには自己の感情や感じ方への確かな肯定が、温かな日差しと潮風の香りの中に含まれているからなのかもしれない。一人の男が歩んできた人生故に訪れた最後であるならば、引き金を引いた理由――いや、理由なんてものは差し置いて、今日がその日だったんだと、単純に僕はそう思える。

 結末のために理由や過去を書き連ねるのではなく、さらりとした読み心地で、読者に格別な印象を残す。9つの物語は僕やあなたの物語でもあり、あなたの琴線を細かく震わすだろう。


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