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言葉は宇宙を駆け巡る

人間の思考や感情は一体どこから来るのでしょうか。

人間に思考や感情があるということはごく当たり前のことです。しかし私は時に、自分の頭や胸のあたりに浮かんでいるにもかかわらず、その思考や感情が、自分自身のものではないように感じられることがあります。

以前は、人間の思考や感情の大部分は言語からやって来るのではないかと考えていました。人間は社会的動物であり、互いに意思疎通するうえで言語の使用は欠かせません。それだけでなく、自らの思考や感情を詳細にし理解するためにも必要不可欠でしょう。すなわち、言語は人間を人間らしくするための大きな要素だと言えます。
原始的な快・不快から始まるあらゆる反応を、言語の発達とともに自らでラベリングする。それこそが感情の発達であり、思考の発達であると思っていたのです。

しかし、確かに私の中に浮かんでいるのに、私の物とは感じられないような思考や感情は、果たして言語のみで説明できると言えるでしょうか。結論から言うと、今の私はそうだとは思いません。人間、さらに言えば哺乳類は、言語がなくともある程度社会的な活動を行ってきたはずです。逆に言えば、言語化が覆い隠す、あるいは拾いきれない事象というのは数えきれないほどあるのではないでしょうか。

その中の一つが、解離されたパーツや人格、記憶だと考えます。私の体の中に存在するそれらは、おそらく私とは異なる「言語」を使っているか、もしくは「言語」を持たないような存在でしょう。だから、私は彼らの意思をうまくくみ取ることができず、時には激昂させ失望させてしまうのです。コミュニケーションの手段としてこちら側の「言語」を使用することにこだわっていては、相手を理解することも、理解してもらうことも、おそらく難しいでしょう。

最近英語を勉強していて思うのは、英語で考えて理解することのハードルの高さです。そもそもの感覚が異なるのだと気づく場面が何度もあります。
例えば、英語における命令法と日本語の命令形とは指す範囲がかなり異なるのではないでしょうか。緊急事態が起きたとき、英語で「Stop!」「Run!」とは言えても、日本語で「やめろ!」「逃げろ!」とは、少なくとも私は、現実的には言わないと思うのです。「やめて!」「逃げて!」と言うと思います。すなわち、命令ではなく依頼です。

いくつか理由はあると思いますが、ストレートな命令表現というのは、日本語においては男性ジェンダーに対応しているからなのではないかと感じます。私は正直なところ、これだけ自分自身が曖昧でまとまりのない存在なので、自分の性別が何なのか、性的指向が何なのか、というのはピンとこないのですが、それでも身体的に女性として生まれ、社会的にもそのように認識され扱われてきたために、「おい、やめろ!」とはなかなか言わず、「ねえ、やめて!」と言うのでしょう。

しかし、英語に直すならば、「おい、やめろ!」も「ねえ、やめて!」も、どちらも"Hey, stop!"となります。試しに、DeepLで翻訳してみてもらいましたが、その他の候補まで含めて驚くほど同じです。

このように考えると、日本語では私自身は命令形は使わず、ほとんどの場合連用形を用いて依頼をしているということになります。しかし、英語で話すときには命令法を使うのです。これは、私にとっては果てしなく新しい体験です。だから、英語で考えて理解することは難しいと感じるのでしょう。

話を戻すと、日本語にも英語にも、それぞれに言語が覆い隠していたり拾いきれていなかったりする事象があるのではないかということです。第二外国語を習得するのはとても難しい、それでも多くの人がそれを楽しみ、時には心が折れそうになりながらも学習を続けていくのは、自分にとって新たな言語を知るということが、より多くの隠された事象に気づくということでもあるからなのではないかと思います。

冒頭では「人間の思考や感情はどこから来るのか」ということについて、言語のみがその手段ではないとの考えを示しました。しかし、ここで考えるべき「言語」とは、必ずしも日本語や英語、より普遍的に言えば言語的コミュニケーションのみではないと思うのです。そしてその「言語」の中には、芸術も含まれると考えます。だからこそ、私たちにとっては創作が自分自身を感じられる大きなプロセスになっているのではないかと感じます。

昨日絵を描いているときに、ふと「言葉は宇宙を駆け巡る!駆け巡ってんだよー!」と中の誰かから言われました。掴みどころがなく、それでいてどこか広がりのある言葉ですが、

人間一人一人が小さな宇宙だとするならば、その無秩序な宇宙空間には様々なタイプの「言葉」(ここで言う「言語」)が駆け巡っている。そして時にはほかの宇宙空間とシンクロしながら、その「言葉」を共有している。

ということなのではないか、と個人的には解釈しました。そしてできあがった絵がこの記事のサムネイルとなり、そこからさらに一日ほど深めた考えがこうして文章となりました。

私はほかの人格やパーツたちとまだうまくコミュニケーションがとれません。しかし、まずは創作というプロセスを大切にしながら、自分だけの「言語」にこだわらず、あらゆる手段でお互いを理解し合えるようになりたいと日々強く思っています。

また投稿しますね。今日はこの辺で、ありがとうございました。


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