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赤い蓋のコーヒー|ネスカフェ ゴールドブレンド カフェインレスの物語

(※この記事は、筆者が暮らしの中で出会ったすてきな物を、独自に短編小説の形でレビューする試みです。PR記事ではありません。)

叔父の慎一郎は母の年の離れた弟で、ぼくと8歳しか年が違わなかったので、ぼくはいつも彼を「叔父さん」ではなくて「慎ちゃん」と呼んでいた。

慎ちゃんは隣町の古いアパートに一人暮らしをしていた。パン工場に夜勤でつとめていた。小学生だったぼくは学校帰りによく慎ちゃんのアパートに立ち寄って、夏でもずっと置いてあるコタツ机で漫画を読んだり宿題をしたり、時には慎ちゃんが持ち帰ったクリームパンを食べながらダラダラ過ごすのが好きだった。

慎ちゃんの住まいは小さなキッチンとトイレだけがついている四畳半で、シャワーは共同だった。
玄関のドアを開けるとすぐ右手にガス台と流しがあって、反対側には小さな和式トイレ、目の前に四畳半と、左側の壁に一間の押入れ。
大きな家具はコタツ机だけ、テレビもなく、本棚もない。押入れの上段には布団と少しの衣類が置かれ、下段には何もない。
とにかく物が少ない、がらんとした部屋だった。
正面には腰高の窓があって、窓を開けると外側の上のところに物干しロープが渡してあった。洗濯物はそこに引っ掛けて、布団は手すりみたいになっている鉄製の窓の柵に引っ掛ける。ベランダみたいに外に出ることはできないけれど、窓枠に腰掛けてコーヒーを飲むのがいい感じだぞ、と慎ちゃんは言った。

慎ちゃんの部屋には、いつも赤い蓋のインスタントコーヒーがあった。
これはカフェインレスコーヒーなんだ、と慎ちゃんは言った。コーヒーからカフェインという成分を無くしたものらしい。カフェインレスにするとコーヒーらしい味わいが消えるものが多いんだけど、これは美味しい。と慎ちゃんは太鼓判をおした。ぼくにも、飲んでみるか? とすすめてくれたけど、ぼくは当時コーヒーに全く興味がなかったので、断ってしまった。
慎ちゃんは夜勤で働いていたので、体内時計に少しでも負担を与えないように、コーヒーは大好きだけど、カフェインを摂らないようにしている、と言っていた。
物が極端に少ないその部屋の中で、その赤い蓋の色はいつでもそこだけポッと明るく見えていた。

夕方になると慎ちゃんはシャワーを浴びて、ピシッとアイロンをあてたシャツを着て、髪もビシッと整え、僕と一緒に家を出た。「仕事に行くときはパリッとしなきゃな」というのが慎ちゃんの口癖で、ぼくらはいつも駅の改札まで一緒に歩き、そこでバイバイと手を振った。

ぼくが中学にあがり、部活や何やかやでめっきり慎ちゃんのアパートに行くことがなくなっていたある日、夕食時に一本の電話がかかってきた。
電話は祖母からで、電話を取った母は受話器を持ったまま振り返り、「慎ちゃんがいなくなったって」とぼくと父に言った。

慎ちゃんは仕事を辞め、アパートを引き払い、姿を消したという。
一ヶ月ほど後に祖父母のところにハガキが届いた。真っ青な空を背景にした台湾博物館の写真の絵葉書に、間違いなく慎ちゃんの字で、突然いなくなり心配をかけて申し訳なかったということ、今は台北でタクシー運転手をしているので心配しないでほしいと書いてあった。
母は「めちゃくちゃ心配した!!!」と叫び、その日の夕食は急遽、特上寿司になった。いくらとウニが美味しかった。

その夜ぼくは、真っ青な台湾の空の下を、空中に枝がたくさん伸びた街路樹の中を、颯爽とタクシーを運転する慎ちゃんの夢を見た。
慎ちゃんのことだから毎日パリっと決めて、仕事に出かけているんだろうな。きっと。赤い蓋のコーヒーを飲んで。

 

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