見出し画像

アスペルガーのBoundaryと社会のオキテ

対人関係でいうBoundaryとは、相手と自分との間の境界線を指します。

アスペルガーの傾向のある人は、なぜ、他人とのBoundaryに踏み込んでしまうのでしょうか。

それは、かれらが築いてきた、この社会を生き抜くために必要な『法則』と『オキテ』のせいなのです。

アスペルガーを持つ人は、相手と自分との間に、どのあたりにBoundaryを置いたらお互いが気持ちよくいられるのか、がわからないことが多いとされています。このため、知らずに相手の領域に入り込んでしまい、人間関係を悪化させてしまうことがよくあります。

初対面の相手に、突然これから2人で飲みに行こうと誘ったり。職場で、単なる話題だとの認識で、相手のプライベートなことをしつこく聞いてしまったり。アスペルガー傾向のある人自身が気に入っている画家の大きな絵を買って、あまり広くない部屋に住んでいる人にプレゼントしたり。

アスペルガーの人が、相手が喜ぶかどうかについて、気にしている言葉を発する場合もあります。「この絵、いいと思うよね?飾ってくれる?」とか。しかし、遠回しな拒否や嫌がっている表情が、汲み取られることはほぼありません。

アスペルガー傾向がある人は、なぜこのような言動をとってしまうのか?かれらの思考の過程では、いったい何が起きているのでしょうか?

まず、よく専門書やネットで指摘されていることですが、アスペルガー傾向のある人は、他人との適切な距離がわかりません。

このため、アスペルガーの人は、距離がさほど近くない人に対して、まるで、旧来からの親友のような親しげな、馴れ馴れしい言動をとってしまうのです。

このようなとき、アスペルガーの傾向のある人は、相手の人間関係のBoundaryを侵害しているといえます。相手は、驚いたり、怒ったり、気味悪がったりします。

ところが、アスペルガー傾向のある人は、親しさのレベルを判定することができないのです。

もっと詳細に描写します。

そもそもアスペルガー傾向のある人は、親しさにレベルがあること自体、感覚的に理解していません。さらに「親密な関係」そのものを体験したことがないアスペルガーの人もいるのです。このような人に、親しさのレベル判定はできません。

そこでアスペルガーのある人は、自分は人の気持ちの機微がわかっていないようだとそこはかとなく感じ始めるだいたい小学校高学年くらいから、無意識のレベルで、ある戦略を使っています。

日常の中で、カフェで隣のテーブルから聞こえてきた会話、テレビドラマのセリフ、小説の登場人物の心理描写、ネットの気持ちの吐き出しの書き込み、新聞記事などの自分の周囲の情報をとりこんで、そのシチュエーションを頭にインプットし、それをもとに「人というものは、どんなときに親しくなるのか、逆に相手を警戒するのか」について、ある法則を導き出しているのです。この『親しさの法則』に従って、この社会をなんとか生きているのです。

その上、重要な要素があります。それが集団の中で振る舞うときに従う『社会のオキテ』です。

アスペルガーの人は、それまで、自分がとった行動に対する周囲の人々からの叱責や批判が、強い恐怖感とともに、アスペルガーの心に刻み込まれ、それらが社会のオキテを形成しているのです。

それまで多くの職場や家庭や学校で受けてきたこれらの叱責の根本的な原因については、アスペルガーの人は、実はあまりよく理解していません。それらは、人の感情や上下関係(つまり権力や虚栄)に関わることなので、どこかに明記されているものではなく、暗黙のオキテだからです。

そのオキテは、いってみれば実質的なものには直結しておらず、つまり計算結果に差異がでたり異なった化学変化を導くような、数値化したり目でみたりできるものではないため、アスペルガーの人にとってはその理由が理解できないのです。理解できるのは、「自分がこういう言動をすると、上司が怒る」という、原因と結果の現象だけです。年齢を重ねるにつれ、この現象を積み重ねていき、その集大成として、いくつかの社会のオキテを導き出しているのです。

そのオキテとは、「上司、先輩、先生には逆らってはならない」「集団ではわがまま、好き嫌いを示さず、全員と仲良くする」「少しでも反抗的と誤解される行動は、とってはならない」などです。これらのルールから外れた行動をとると、集団の中で権力を持つ人々の逆鱗にふれ、その集団から追い出され、仕事をなくし、結果として路上生活のおそれもあります。そのため、アスペルガー傾向のある人にとっては、これらのオキテは絶対的なもの、命を左右するものなのです。

これらのオキテを行動規範として行動することによって、アスペルガー傾向のある人は、かろうじて、社会や集団から抹殺されずに、生きていくことができているのです。社会にとどまるために、これらのオキテは大きな意味を持ちます。

ところがアスペルガー傾向のある人も、もともと、小児や青年期のうちは自分の思うとおりに自由に行動していました。ところが社会にでて働くようになると、自由にふるまった自分の言動が周囲との大きな軋轢を生じ、生きづらさを抱えて挫折することが多いのです。その理由は、アスペルガーの人にはわからないのです。自分は、上司に対して当たり前のことを言っただけなのに、なんとなく職場の人たちが急に緊迫した空気になったのはなぜなんだろう、とか。

そこで、根本的な意味はわからないながらも、経験則から、このような社会のオキテを見出し、これに従って行動することが、社会や集団の中で生き残るための、唯一の方法だということを学んだのです。おそらく、このオキテは無意識のレベルに刷り込まれています。

そして、社会人生活を続けるにつれ、これらのオキテに従っていれば権力者の逆鱗に触れることがなく、集団の中で居場所が確保できるのだという経験を重ねていきます。このため、アスペルガー傾向のある人が年を重ねるにつれ、その社会のオキテの絶対度は増していきます。

ただし、決定的な問題が1つあります。

この社会のオキテを、どの場面で適用したらよいか、アスペルガー傾向のある人は、判断できないのです。

例えば体育会系の職場ならば、このようなオキテがぴったりと言えましょう。このオキテを守った言動をしている限り、ヒエラルキーの頂点にいる上司の逆鱗にふれる頻度は、確実に激減するでしょう。

しかし残念なことに、プライベートの人間関係はこのオキテは当てはまらないのです。普通の人は、場面によってはもう少し自由にふるまってもいい、と判っているので、いいあんばいで無意識に調節します。ところが、アスペルガー傾向のある人には、これらのオキテが趣味の会で知り合った相手との関係に当てはまるものではないということが、わからないのです。

例えば、アスペルガー傾向のある人が、趣味の会、ママ友、仕事関係などを通じて、ある人(アスペルガー傾向のない人)とその日初めて知り合ったとしましょう。お互いにもう成人で、しかも若くはありません。

その時、アスペルガー傾向のある人の頭の中を「こういうシチュエーションでは、相手と仲良くなることが正しいことだ、よいことだ」というオキテが支配します。

「よく言うでしょ?」

「趣味の会で知り合って、意気投合して、よく飲みに行くようになるって。私もがんばらなきゃ。それが社会っていうものだから。」

「これが、コミュニケーション能力がある人間、『普通』の人たちがやる行動でしょ?じゃあ、私もやらなきゃ。」

アスペルガー傾向のある人は、直感的にそう考えます。

そうしないと、冷たいって言われる。「仲良く」ならなきゃ。帰っちゃうなんて、ワガママって言われる。今までずっとそうだった。そんな非難はもうされたくない。アスペルガー傾向のある人は、「普通」の人たちのフリをしているつもりなのです。

同時に、先にふれた『親しさの法則』も、アスペルガー傾向のある人の行動を規制します。趣味の会で出会った人は、仲良くなるものでしょ。と。

こういう思考の過程を経て、アスペルガー傾向のある人は、その日初めて会った人に対し、唐突に「ねえ、今日これから飲みにいきませんか?」と誘ってしまいます。アスペルガー傾向のある人自身は、じつは本心ではすぐにでも帰りたいのです。人と一緒に行動することに、疲れ果てているかもしれません。しかし、これらのオキテに従う義務感から、必死で言っているだけなのです。普通の人のフリをしているつもりなのです。

これが20代ならば、若さゆえの軽いノリで飲みに行くことも多いでしょう。しかし、アスペルガー傾向のある人は、たとえこれがお互いに中年であっても、年相応の行動という概念がなく、20代の若者とまったく同じような言動をとります。これが普通の人からみると、何とも言えない大きな違和感を伴ってうつります。

もう完全に中年に分類される、世間一般では家族を支え孫でさえ生まれているかもしれない、会社勤めならある程度の役職がついているであろう、社会的立場を持つはずの年齢の人間が、突然、まるで大学生のようなノリで「ねえねえ、これから飲みにいかない?」と初対面の自分に誘いをかけてくることに、相手は、強く戸惑います。

その相手が気の弱い人だと、一杯だけつきあってくれるかもしれません。しかし、「なぜ?そんなにまだ仲良くないのに。」「なぜ?そんなに意気投合した感じもないのに。」という違和感は拭えません。さらに、アスペルガー傾向のある人は、自分から誘っておいて、支離滅裂で何を言っているのかわからないような話を一方的にまくしたて、その上、突然、不自然に黙り込んだりします。アスペルガー傾向のある人の、相手を誘ったときの高いテンションは、義務感から、瞬間的に意図的に作られたものだからです。

誘われた相手の心には「黙り込むなら、なぜ誘ったのか?」という疑問が沸き、さらに「へんな人につかまっちゃったな、ぜんぜん楽しくない」という怒りや後悔がつのり始めます。大事なパートナーや子供と共にするはずだった夕飯を突然断ってまで、さらに飲み代を払って、時間をつぶしてまで、このアスペルガーの人に付き合うことに決めてしまった自分を呪います。

アスペルガー傾向のある人との食事中、相手の心の中には終始不満が渦巻きます。アスペルガー傾向のある人との距離は当然ながら縮まることはなく、親しくなることはまずありません。

また当然ながら、これ以降この相手が食事につきあってくれることは2度とありません。アスペルガー傾向のある人本人も同様に、「あれ?なんだかこの人、怒ってるみたい。。。こわい。。。」ということだけはうっすら感じ、それでもその怒りの理由はわからないという恐怖感から、2度と誘いません。2人は一生、2度と合うことはないのです。

しかし、アスペルガー傾向のある人本人も、「世間はそういうオキテだから、従うべき」だったと思いこんでいるため、相手が不満そうだと感じたとしても、自分が悪いとは思っていません。自分はそのオキテに従っただけであり、相手が不満そうな理由は、わかりません。もしかして店の料理がまずかったのか、自分の話にたまたま興味がなかったからかな?ともすると逆に、不満そうな態度をした相手に対し、怒りを感じてしまいます。

趣味で出会った2人が意気投合して、飲みにきたんだよ?もっと楽しそうにすべきじゃないの?!と。

このため、このアスペルガー傾向のある人は、「空気が読めず、相手に無理やり食事や飲みにつきあわせて相手に嫌な思いをさせたのに、特に反省もしていない」非常識なやつだとみなされてしまいます。

いかがでしょうか?

アスペルガー傾向のある人が、相手のBoundaryを侵害してしまうのはなぜか?

それは、アスペルガー傾向のある人が、他人との適切な距離を自分で図れないために苦肉の策として築いてきた独自の『親しさの法則』と、社会で叩かれてつちかった『社会のオキテ』。これらの硬直したルールを、生きたプライベートの人間関係に当てはめようとした結果なのです。それが、アスペルガー傾向のある人の思考の過程で働いているのです。

では、どうしたら解決するのでしょうか。

これは、アスペルガー傾向のある人が硬直した意味のない「社会のオキテ」で武装しなければ生きていけないような、この現在の社会を改善することが、解決の可能性を持つ方法だと思います。

意味のない上下関係、過去から引き継がれている形骸化したシステムや前例主義、それに仕事の結果に影響しない偏見や思い込みをできるだけ無くすことです。周囲の人たちに迷惑をかけない範囲で、自由な発想で話し、行動し、ものをつくり、人の役にたつことです。

アスペルガーの人は、どちらかというと現実主義です。

現実的にどうしたら優れたモノを作ることができるか、効率的なシステムを構築できるか、判っています。

ただ、それによって過去から引き継がれている古いシステムを壊すことを恐れない。古いシステムを壊すことによって、いま恩恵を受けているある種の人たちの怒りを買ってしまうのです。そのある種の人たち、というのが、現在では依然、大多数であったり、強大な権力を持っていたり、さらには世間から多大な同情を集めたり、します。その結果、アスペルガーの人が失職したり孤独に陥る危険を伴うのです。

でも、恐れていてはいけないとわたしは思います。恐れず、能力を100%発揮しましょう。自分の高い能力を活かし、低い能力に自分自身をまるごとあわせることをやめましょう。

わたしたちの社会は、日本だけではなく世界は、確実にかわって変わっていきますから。

長い年月。。。もしかしたら100年以上かかるかもしれませんけど、確実に変わっていきますから。