主に怪文書

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『ガーすけと桜の子』における作劇上の問題

株式会社ワンダーヴィレッジ主催の舞台『ガーすけと桜の子』に、贔屓の役者(それが誰かはすぐにわかることだし、隠すつもりもないけれどこの記事上で当人の名前を明記することは避けます)が出演するので、3月11日昼公演、12日夜公演の計2回観劇した。結論から言って、人生で最悪の観劇体験となった。ストーリーを追うことに大きな苦痛を感じ、帰宅後に精神的なストレスで体調を崩したのは、これまでに概算でも300作品以上の演劇(現代口語演劇、古典、ミュージカル、無言劇、テント芝居、アングラ、学生演

    • 夢の城の囚われびと、あるいは愛しのエンタテインメント

      ミュージカル・ショー『SEVEN‐シンドバッド7つの航海‐』大千穐楽、おめでとうございます。宝塚が好きで、(自担がいつもお世話になっている)嶺亜さんも好きで、あとユカイさんは私の胎教でもあったのでこれは観たい~と思って軽い気持ちで品川に向かったが最後、その場で夜公演のチケット手配したり平日有給取って見に行ったり、なんかよくわかんないけど東京前楽、楽で号泣して公演イメージアクセサリーを購入したり、挙句の果てに大阪まで行って哀れな恋の奴隷になりました。後述しますが黒田光輝さんとい

      • いつもどこかで、宇宙の旅

        ※舞台『DREAM BOYS』2021年9月25日夜公演を観劇した人間の限りなく個人的な感想です。 横断歩道の白線の上だけを歩いて帰った昔。 自分から謝るのなんて負けだと思っていた頃。 頑張った日は発泡酒じゃなくビールを買う現在。 自分で決めたルールを粛々と守るのが好きで、それで演劇が好きだった。舞台の床の板の上に、頭の中から取り出したチョークで印をつける。円。決してそこから足をはみ出してはいけない。幕が上がる。注意深く、歩き回る。歩く、歩く、走る、歩く。向こうから歩いて

        • montage20[Seven Samurai]

          第七芸術、第七官界、第七天国、エトセトラ。 7は未だ見ぬ素晴らしいもののための記号。 発見と遭遇をよろこぶ声。 私が単数である以上、世界も単数。 決して複数の世界は存在し得ない。 ありもしない7つの世界の代替品として、映画はある。複数の私が世界を眺める夢、そのもの。 モンタージュの技法そのものは、映画創世記から知られていた(らしいよ)。 視点の異なるカットを複数つなぎあわせるこの魔法は、のちに2つの方向へ分岐する。 シナリオの言語的な要素を映像に置き換えて編集していくエイゼ

        『ガーすけと桜の子』における作劇上の問題

          ゼロ距離コミュニケーション

          エスコートが上手い人に憧れる。なんか格好良くって、ええ。百貨店の大きなエレベータの中などでかれらに遭遇することがおありだろうか。私はある。「どちらへ?」どちらへ!?ぼんくらな私めはいつも「何階ですか」と機械的なメッセージを再生することしかできないが、そういう言い方があるのかあ、と、感動してうまくしゃべれずおどおどしているあいだにも、かれらが絶えず発散するこちらをリラックスさせるラベンダー色の香気。匂ふエレガンス。「すいません、八階に」 人はひとりで歩いていけると信じている派

          ゼロ距離コミュニケーション

          自由自在に不自由〜『二十面相』初日に寄せて〜

          2021年6月19日 モボ朗読劇『二十面相』〜遠藤平吉って誰?〜 初日を観劇した感想です 線を引いて色を塗ることで完成する絵画のような演劇と、素材のかたまりからモチーフを削り出して像にする彫刻のような演劇がある。モボ朗読劇『二十面相』はたったいま目の前で削り出された氷像だった。 誰もが誰もになることができる。と思う。演劇が演劇である以上、あなたにしかできない役は存在しない。あなたが消えてゆくことはできない。あなたが溶けてしまうことはできない。 かといってあなた自身を見ていた

          自由自在に不自由〜『二十面相』初日に寄せて〜

          私が奪われる予定の言葉たちについて

          焦燥が足りない。舞台の本番2日前の追い詰められている感じがあと少し足りない。待望の、大好きなアイドルの単独主演演劇作品を前にこんなに凪いだ心でいること自体、何だか恐ろしくなってきた。どうせ初日を観て、大騒ぎして、公演期間中「明智が……」しか言えなくなるのなら、盛大に気を違えておくべきではないのか。どうなんだ。 私の、この、屋外に放置していた缶コーヒーさながらの生温さの一因として、“内容の不透明感”がある。これは別に制作サイドの広報における怠慢を指摘するようなものではなくて、

          私が奪われる予定の言葉たちについて

          続・オペラ越しの幻想

          矢花黎@帝国劇場があまりにも矢花黎@東京ドームシティホールや矢花黎@さいたまスーパーアリーナやらとは別人で歓喜と混乱に踊り出したい気持ちを噛み殺していたらいつのまにかフィナーレを迎えていた…… 基本的に矢花黎さんはステージの上で、カメラの前で、観客の前で、異分子として在ることにためらいがない。し、基本的に私はそういう矢花黎さんをたまらなく好ましいと思うのですが、演劇というフィールドに身を置く矢花黎さんは真逆の美意識によって行動する良く似た別人のように見えてしまうので危険極ま

          続・オペラ越しの幻想

          舞台『DREAM BOYS』考

          1、はじめに面白い演劇が存在する以上、同時につまらない演劇というのも存在するわけで、その線引きは作品のクオリティのみによって決定的になるのではなく、単に好みか好みじゃないか、観客一人一人の趣味嗜好に拠るところも随分大きい。誰かにとっての駄作は、別の誰かにとっては傑作かもしれない。だからといってその芝居をつまらないと思うことは悪ではないし、むしろそれこそ人が芝居を観る醍醐味じゃないかと思うほど、あなたが感じる「つまらない」は真実で、かけがえの無い価値があるはずだ。 舞台『DRE

          舞台『DREAM BOYS』考

          オペラグラス越しにみる幻想

          佐々木大光さんのお芝居について、抑えの芝居が見事だったと書いたけど言葉が足りないように思うので補足。SODA Special Edition2021で「台詞がない部分のお芝居が難しい」という話題があがっていたけれど、何故台詞がない状態での演技が難しいかというと、それは演劇が基本的にコミュニケーションの上に成り立つ芸術であり、台詞があるということは必然的に相手役との共同作業で芝居が出来る(モノローグの場合は観客との共同作業で場面を作ってゆく)から。つまりどんな演劇も全てアクショ

          オペラグラス越しにみる幻想

          ROCK READING『幸福王子』感想

          王子様みたいだからあなたを好きになったのか、あなたが好きだから私にはあなたが王子様に見えるのか。たぶんどちらも本当で、そしてどちらも間違っている。 2020年の日本で、今、生きている人の格好よさを「王子様みたい」だって思ってしまう自分の感性をとても恥ずかしく思っていたから、それを自分の胸の内から取り出して彼らを言祝いだり、他人に見せたりするのは何となく控えていた。 幸福王子を演じる本髙克樹さんを眺めながら思ったのは、かつての王子たちを装飾していた高貴な家柄や支配する性として

          ROCK READING『幸福王子』感想

          おわりとはじまり

          彩凪さんの素晴らしさの多くは努力によって後天的に獲得したものが多いのだろうと踏んでいる。だから彼女について語る際、才能という言葉を使うのに躊躇してしまうのだけど、少なくとも物事の終わりを表現することは確実に彼女が生まれ持った一つの天賦の才だと思う。革命、恋、国、時代、人生。美しい終わりを創り出すその才能は、多くの演出家の信頼を得、様々な作品の輪郭をいつだってきゅっと引き締めてきた。その印象が強いからか私は彼女を観る時いつも何となく終わりの気配を嗅ぎ取ってしまう。大好きな人だか

          おわりとはじまり

          「好き」って実際何なのですか

          「愛」ほどじゃないかもしれませんが、同じくらい繰り返し語られてきた問題なのでしょう。それなのに、人類が生まれ、増え、文明を営み、文字を発明してから久しい今日に至るまで、これだという答えが現れていないのは正しく人類の怠慢、と言いたいところだけど多分そうでもなくって、なんだか薄味な言い方になるけれど、「好き」には人の数だけ様々な形があるものだからなのでしょうね。 私は浮気な女で、という言い方は少し違うかもしれないけれど、まあ常にとにかく色んなものを好きでいるわけです。幼稚園や小学

          「好き」って実際何なのですか