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「好き」って実際何なのですか

「愛」ほどじゃないかもしれませんが、同じくらい繰り返し語られてきた問題なのでしょう。それなのに、人類が生まれ、増え、文明を営み、文字を発明してから久しい今日に至るまで、これだという答えが現れていないのは正しく人類の怠慢、と言いたいところだけど多分そうでもなくって、なんだか薄味な言い方になるけれど、「好き」には人の数だけ様々な形があるものだからなのでしょうね。
私は浮気な女で、という言い方は少し違うかもしれないけれど、まあ常にとにかく色んなものを好きでいるわけです。幼稚園や小学校の頃、友達同士で好きな人を打ち明けあったりして、でも私はその時名前を挙げた脚の速い男の子以外にも、ピアノの上手い女の子とか、眼鏡を掛けた美術教師とか、いつも複数の好きな人がいました。大人になるにつれ私はいわゆる、港ごとに違う女をつくる航海士のようなやり方、つまりクラスで好きなのはこの人、部活で好きなのはこの人、朝の電車の中で好きなのはこの人、アイドルで好きなのはこの人、というように、フィールドさえ分ければ好きな人が沢山居ても全然問題無いということに気が付きまして、ちょっとずる賢く「好き」を謳歌しております。
そんな様子で常に色んなものを好きでいる私ですが、世の中のもの全てを好きでいる訳ではなくて、当然嫌いなものも、好きでも嫌いでもないどうでもいいものもございます。嫌いなものというのはむしろ心安らかに見ていられるものですね。なぜ自分はそれが嫌いなのか、考えてみれば何となくわかるから安心です。問題は、好きなものとどうでもいいものの差はどこにあるのかという点にあります。
いや、何をいうてんねん要旨がさっぱりわからん文章を書きおって、というご意見もおありでしょうけど、これは私の「好き」を定義する為にはやはり重要なポイントなのです。例えばいちごジャム。私は幼い頃からずっと、自分はいちごジャムが好きだと思っていました。以前友人宅でお酒をご馳走になった際にも、友人が飲んでいた焼酎のお湯割にいちごジャムを加えたもの(もっとスマートな呼び方はないのだろうか)に、私は強い誘惑を感じました。一口もらって飲んでみますと、それは意外にも舌のうえに張り付く少し不快な味が致しました。その時、私はトーストやヨーグルト、サンデーの上に乗っかっているいちごジャムを好きだったのであって、焼酎のお湯割の中を揺蕩ういちごジャムのことはこれっぽっちも好きではなかったことに気付いただけでなく、それどころかこれまで何となく感じていたいちごジャムへの「好き」は、実は嫌いではないというだけの単なる無関心、「どうでもいい」だったことを悟りました。
それ以来私は今まで以上に注意深く、「好き」と「どうでもいい」の境をさぐるようになりました。他人様の「好き」がどういうものであろうがそれは私にとって「どうでもいい」ことですが、私の「好き」が何によって「どうでもいい」や「嫌い」と区別されるのかは私にとって大問題であります。必要によってはいちごジャムのように「好き」に擬態していた「どうでもいい」を一つ残らず見つけ出し、白日のもとに晒し仕分け、断捨離してやるぞという野心に、私は燃えておりました。港の女が多ければ、それだけ出費も嵩むのです。
例えば私は今あるアイドルの方を好きでいますが、その方を好きになってから毎日はとても忙しく過ぎてゆきます。雑誌を予約する為に、本屋に行きます。動画が更新されればイヤホンをつけ、画面をタップして液晶の中のその人を見つめます。動画の中でその人が食べていたラーメンを買いに、KALDIに行きます。その人に直接お願いされた訳でもないのに、勝手に身体が動きます。動画や写真はおろか、どうやらその人の名前を聞いたり読んだりするだけで、身体の一部が勝手に動いてしまうようなのです。思うに、私の「好き」と「どうでもいい」の違いは「私の身体を動かす力の有無」にあるような気が致します。もしこの見立てが当たっているのであれば、「好き」という気持ちに振り回されて過去に私がしでかした様々な失敗や空回り、黒歴史も全部全部「好き」が勝手に私の身体を動かしたからだということにして、これからはもう目を背けておくことができますから、これは我ながらなかなか「好き」な考えだぞと、思う訳です。

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