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舞台『DREAM BOYS』考

1、はじめに

面白い演劇が存在する以上、同時につまらない演劇というのも存在するわけで、その線引きは作品のクオリティのみによって決定的になるのではなく、単に好みか好みじゃないか、観客一人一人の趣味嗜好に拠るところも随分大きい。誰かにとっての駄作は、別の誰かにとっては傑作かもしれない。だからといってその芝居をつまらないと思うことは悪ではないし、むしろそれこそ人が芝居を観る醍醐味じゃないかと思うほど、あなたが感じる「つまらない」は真実で、かけがえの無い価値があるはずだ。
舞台『DREAM BOYS』を観た。芝居の内容に興味があった訳ではなくて、好きなアイドルが出ているのでチケットを取りました。噂に聞きしジャニーズ帝劇舞台、結構な覚悟を据えて観に行ったのですが、考えるな感じろ系をイメージしていたら案外考えると面白い要素が沢山あったので、どこがどう面白かったか書き起こしてゆきます。繰り返しになりますが、「つまらない」も「面白い」も等しく同じ価値を持った感情です。そこに貴賎はないと思いますし、これを読んだところで私の感じた面白さを他の誰かに共有出来るとはゆめゆめ思いませんが、こんな視点で観る人もいるのね、とおもしろがっていただけたら幸いです。

2、古代ギリシア劇と祭礼

今日の西洋演劇の源流はギリシア悲劇にある。日本では『オイディプス王』や『王女メディア』が蜷川幸雄の演出によって広く知られているし、近年では第64回岸田國士戯曲賞を受賞した市原佐都子『バッコスの信女-ホルスタインの雌』もエウリピデスのギリシア悲劇を下敷きとする戯曲である。
そんな偉大なるギリシア悲劇、実際観ると拍子抜けするほどつまらないです。つまらなく感じる場合が多いと言うべきか。正確にいうと、ギリシア悲劇は現代の演劇ファンの多くが求めるところである「共感」や「感動」とは無縁の演劇であるため、つまらないように思えるのです。そもそもギリシア劇の元祖というのは、演劇の成立以前の芸能、すなわちディオニュソス祭礼の合唱歌であると推測されています。ディオニュソス神とはギリシア土着の神ではなく、北方の蛮族が侵攻する生殖と酒の神でありました。はじめその猥雑さに抵抗していたギリシア人たちも、いつしかその狂喜乱舞の祭りに自らの生命力の爆発と日常生活からの解放を見出すようになり、ディオニュソス祭礼は瞬く間にギリシア全土に普及しました。そんな生の讃歌であるディオニュソス祭礼がどうしてあの沈鬱なギリシア悲劇らを生み出したか、その部分に今日ではお目にかかることのできないギリシア劇の面白みがあるのです。
当時の劇詩人たちは、三つの悲劇とともにそのフィナーレとしてサテュロス劇を加えた四部作の形式でディオニュソスの祭礼を作り出していました。ギリシア劇について現在の私たちが実際に知りうるのは、実は悲劇三部作の部分のみなのです。では失われてしまったサテュロス劇はどんな出し物であったかというと、それに先立つ悲劇が既に文学的な形式を確立していたとするならば、反対にサテュロス劇は決定的な形式を持たない歌と舞踊による演目であったと考えられています。
長々とギリシア劇の概要について講釈を垂れましたが、舞台『DREAM BOYS』とギリシア劇の交点はまさにこの構成にあります。先に申し上げたように、ディオニュソス祭礼は生を言祝ぐ祭りです。ただ当時のギリシア人にとって生命とは、現代を生きる私たちのように必ずしも個人的な問題として捉えられる事象ではありませんでした。古代ギリシア人たちは、たった一人の生死が宇宙の進行を司る星々の動きに関係すると信じていたのです。つまり彼らにとっての生は星々の移り変わり、すなわち巡り巡る季節と同じリズムを共有する営みでした。とすればその象徴たるディオニュソス神、ディオニュソス祭礼は古い時代の死と新しい時代の誕生とをスイッチングする役割を持っていたと言えます。
現存している記録によれば、祭礼の初めにはまず年老いた王の苦悩が演じられました。やがて舞台の上に冬が訪れると同時に、王の生命力は失われ、死に至ります。するとそのうちにある一人の若々しい男が立ち上がり、次なる時代へと民衆を導く新王として担ぎ上げられるのです。この際、新しい時代と新王の到来は、全く唐突な猥雑さでもって、つまりサテュロス劇の歌や踊りの大騒ぎによって表現されます。そしてひとしきりの大騒ぎの後、一行は劇場を出て町中を練り歩いたそうなのです。演出家であり演劇評論家でもあった福田恆存は、市街へと流れ出した後の人々の行動について、興味深い推察を残しています。

「おそらく、その日は、観客たる市民たちは、サテュロス劇のあと、劇場から流れ出して、夜を徹して騒ぎまはつたのではないかとおもはれます。古き年の苦悶と死を扱った悲劇は、じつはそのあとにつづくよみがへりのために演戯されたのであるといへませう。」(福田恆存「劇と生活」毎日ライブラリー『演劇』昭和27年4月)

氏の仮説は単なる想像の域にとどまるものではありません。こうした年季交替の説話は古代ギリシア以外にも世界の各地で見受けられる物語形式であるからです。例えば、日本の演劇の母胎として知られる「天の岩戸」神話にもサテュロス劇的な帰結を見ることができます。ギリシア劇は現代日本の観客にとってはわかりづらい種類のおもしろさを持った演劇であると同時に、人間の文明がある限り必ず発生する最も普遍的な祭礼の形式であるとも言えます。

3、舞台『DREAM BOYS』と王位継承

ギリシア劇が極めて普遍的な形式を持った演劇であることを踏まえた上で、いよいよ舞台『DREAM BOYS』との比較に移ります。
先述の通り、舞台『DREAM BOYS』とギリシア劇の最大の交点はその構成です。それはあるいは分類と言っても良いかもしれません。舞台『DREAM BOYS』は“演劇以前の演劇である”という点において、ギリシア劇と同じ分類に身を置く、極めて珍しい現代演劇と言えます。
では何故ジャニーズは15年以上の長きに渡って、わざわざ“演劇以前の演劇”を我々に見せつけるのでしょう。そして何故我々ジャニーズファンは飽きもせず、『ドリボ』を求め帝国劇場に脚を運んでしまうのでしょうか。その要因は、ジャニーズという組織において舞台『DREAM BOYS』が、ある種の王位継承をアピールするセレモニーとして機能していることにあるのです。
ここで一度、歴代『ドリボ』の主演キャストを振り返ってみましょう。初演(2004年)の滝沢秀明さんに始まり、2005年KAT-TUN、2006〜2013年の亀梨和也さん、2014〜2018年の玉森裕太さん、そして2019年から現在まで主演を務める岸優太さん、神宮寺勇太さん。並んだお名前を見ているだけでも、その人選に共通する何か特別な評価基準の存在を感じ取ることができます。また、同じくジャニーズの俳優によってロングランを続ける舞台『SHOCK』シリーズとは異なり、周期的に主演俳優が交代していることも舞台『DREAM BOYS』の特徴です。限られたスターによって受け継がれてきた舞台『DREAM BOYS』、これをジャニーズというひとつの帝国の頂に立つ新王を祝祭する、王位継承の祭礼として考えることは不可能でしょうか。上演ごとに筋書きに若干の違いが見受けられるらしいものの、基本的に『ドリボ』はチャンプという先王が存在する世界で、エンターテイメントを通じて夢を掴もうと奮闘する若者(主人公)が人間的成長を遂げた果てに、新たな王として歓迎される物語として読むことができるはずです。こうした展開はまさに、先述したギリシア悲劇の典型的な類型です。また2006年版以降追加された心臓移植というモチーフは、チャンプ(先王)の肉体が主人公の弟(さらに新しい世代の王候補)へと受け継がれる→王の神秘性や継承の正当性を強調するものです。
つまり舞台『DREAM BOYS』は、ジャニーズがその時代に送り出す新しいアイドル(新王)の継承の正当性を、演劇という形式を利用してアピールするための出し物なので、いわばディオニュソス祭礼の生きた化石と言っても良いかもしれません。実際『DREAM BOYS』も最終的には歌と踊りのフィナーレ、ディオニュソス祭礼におけるサテュロス劇に帰結するのですから。
一方、『ドリボ』を客席から見つめる私たちはその形骸化したストーリーに戸惑いつつも、『ドリボ』の名の下に現れた新王の登場をストーリーを通じて無意識のうちに受け入れ、唐突に挿入される歌と踊りに歓喜し、劇場を後にしてからもそれぞれの場所で(それは専ら有楽町周辺の飲食店である場合が多いでしょうが)先程の宴を反芻します。結局のところ、私たちの野次馬根性は紀元前の古代ギリシア人たちと何ら違いを持ちません。人間の営み、即ち食べ、飲み、踊り、歌うこと。その口実としてまず共有される悲劇、それこそが舞台『DREAM BOYS』の最大のドラマツルギーであると言えます。

4、おわりに

本稿では、舞台『DREAM BOYS』の儀式的な性格とカノン的な劇構造に注目し、『ドリボ』の魔力の源を探ってきました。
とはいえ精緻なストーリー展開を持った上質なエンターテインメントが溢れる現代にあって、舞台『DREAM BOYS』の脚本には看過できない程度の飛躍が見られることも事実です。(余談ですが、タイショーが刺される時には血が出るのに、マダムエマは打たれても血が出ていないのはどういう意図なんでしょう、そもそもそんなシーンあったかしら、ずっと気になっています。)しかし、そうした疑念を抱きながらも我々ファンはファミリークラブという名の家族の一員としてこれからも、ジャニーズ一族の物語『ドリボ』を目撃し続けるのでしょう。『ドリボ』を観ている時の気持ちはどこか、ジャニーズよ永遠なれ、と祈る心に似ています。役者の身体を通じて物語を追体験する快感の為ではなく、新しい時代の到来を喜び、更に先の未来を祈ること。その為に、舞台『DREAM BOYS』は私たちの前に何度も現れるのかもしれません。

参考文献

福田恆存『演劇入門 増補版』(2020年、中公文庫)
鈴木忠志『演劇とは何か』(1988年、岩波書店)
三浦基『やっぱり悲劇だった:「わからない」演劇へのオマージュ』(2019年、岩波書店)
扇田昭彦『蜷川幸雄の劇世界』(2010年、朝日新聞出版)
蜷川幸雄、長谷部浩『演出術』(2002年、紀伊國屋書店)

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