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おわりとはじまり

彩凪さんの素晴らしさの多くは努力によって後天的に獲得したものが多いのだろうと踏んでいる。だから彼女について語る際、才能という言葉を使うのに躊躇してしまうのだけど、少なくとも物事の終わりを表現することは確実に彼女が生まれ持った一つの天賦の才だと思う。革命、恋、国、時代、人生。美しい終わりを創り出すその才能は、多くの演出家の信頼を得、様々な作品の輪郭をいつだってきゅっと引き締めてきた。その印象が強いからか私は彼女を観る時いつも何となく終わりの気配を嗅ぎ取ってしまう。大好きな人だから永遠に変わらない姿を眺めていたいはずなのにどうしても結末が気になってしまう、読みかけの小説のオチが知りたくて最後のページに飛んでしまいたくなる欲望にそれは似ている。だからこの演目が発表された時、遂に結末を確認できる機会が訪れたと思った。

その知らせがあったのと殆ど同時期に、彼女とは別のタレントのファンにもなった。その人はまだ二十歳になったばかりで、彼女と比べてキャリアも浅く、そういう人を応援するよろこびはとても久しぶりで、浮かれていた(現在も充分に浮かれている)。その人を見つめる時のように、彼女に対して何か、物事のはじまりを慈しむような、こんな気持ちになることはもうないだろうとか、そういう割り切りを覚えたつもりになった。

彼女の初主演作『春雷』は単なる青春のきらめきを描いた作品ではない。死という運命に吸い込まれてゆくゲーテとウェルテルの二役を、決まった結末から逆算するように正確に歯車を狂わせ演じ進める芝居に、その稀有な才能が存分に発揮されていたように思う。だからディナーショーで『春雷』のナンバーを歌うと聴いて私が期待していたのは間違いなく、彼女が創り出す終わりの美しさの方だった。

演目全体としては、いつもの彩凪さんの耽美な魅力全開のショーだったと言えるかもしれない。私の大好きな、彩凪さんが表現する革命や恋の終わりを沢山観たような気がする。(『琥珀色の雨にぬれて』を歌ってくれたのが嬉しかった、あの歌大好きです。)ただ『春雷』の主題歌「忘れじの君」だけは、これまでと様子が違っていたように思う。7年前の上演当時よりずっと初々しい、初恋の喜びに頬を染める青年がこの歌を歌っていた。何て言ったら良いのかわからないのだけど、7年前のウェルテルが発していた青春のきらめき?あれを極限まで純度を高めて濾過して固めて作った宝石みたいな、120%の「初恋」を見せられていた。もちろんそれは彼女の研究によって錬えられた究極の偽物としての「初恋」であるはずで、つまりどんなにそれを物事のはじまりに錯覚したところで実際には終わりの始まりである、みたいな部分は変わらないしそんなことわかっているんだけど、でも本当に最近、あなたにそういう気持ちを抱くことはもうないかなとか思ってしまっていたからものすごく動揺して、困った、もう降参です。始まりでも終わりでももう何でも良いから、この人のつくる綺麗なものをなるべくずっと観ていたいなと思います。

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