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『ガーすけと桜の子』における作劇上の問題

株式会社ワンダーヴィレッジ主催の舞台『ガーすけと桜の子』に、贔屓の役者(それが誰かはすぐにわかることだし、隠すつもりもないけれどこの記事上で当人の名前を明記することは避けます)が出演するので、3月11日昼公演、12日夜公演の計2回観劇した。結論から言って、人生で最悪の観劇体験となった。ストーリーを追うことに大きな苦痛を感じ、帰宅後に精神的なストレスで体調を崩したのは、これまでに概算でも300作品以上の演劇(現代口語演劇、古典、ミュージカル、無言劇、テント芝居、アングラ、学生演劇etc.)を鑑賞してきて以来、初めてことだった。
本公演に出演していたお目当ての役者のファンになってから、その所属事務所主催のいわゆる「虚無舞台」をいくつも観劇した。確かにそれらの脚本には特有のクセのようなものがあり、単調なシーン展開、ツッコミどころの多い脚本を見つづけるにはそれなりのエネルギーを必要とする。しかし、ナイフで刺された人間がなかなか死ななかったり、「鉛の板」が超重要小道具としてシリアスな場面で連呼されたりするトンチキ芝居のことも、私はそれなりに愛し、楽しんできた自負があった。演劇が好きで好きでたまらないので、クオリティに難があったとしても、あまり好きではない劇団の公演でも、演劇を観るという行為そのもののおもしろさ、豊かさを疑ったことはただの一度もなかった。そんな自分がなぜこんな悲劇の渦中に崩れ落ちてしまったのか、その要因を、作劇上の問題点に限定して検討していきたい。

①洗練の足りない戯曲構造
たとえば初見時、開演1分足らずで主役のモノローグの挿入位置に違和感を感じた。フライヤーなどである程度のあらすじを把握していたので、この物語が「個性的な住人たちが集まるぼろアパートで、うだつの上がらない大学生が一人暮らしをする中へんないきもの(桜)と出会ったことで、運命が変わっていく」話だということは容易に理解できる。つまりこの芝居の起承転結の「起」に当たるのは、突然現れた桜との出会いだろう。タイトルロールであり、典型的なほどに演劇的な異形の存在「桜」を際立たせるためには、「龍之介+住人達」という日常に、「桜」という非日常が飛び込んでくる場面がまずつかみとして一番重要であるはずだ。しかし、本作では環境設定に過ぎないはずの「にぎやかな住人達とのドタバタコメディ」の要素に重心が傾けられており、こうした演劇上の構成点がはなから散逸してしまっている。もしこうしたドタバタシーンを保持したいのであれば、まず「龍之介+住人達」という日常のドタバタ劇を短く描いたあとに、主人公の独白~幕開きアクトを挟んでから「桜」との邂逅を描いたほうが効果的ではないだろうか。とはいえ、よく歌舞伎や日舞、宝塚で用いられるチョンパのような演出で、主演のモノローグから始めるという「構造」にこだわったのかもしれず、本作に抱いた違和感がこの一点のみであったなら容易に目を瞑ることができただろう。

②二律背反の言語感覚
冒頭、龍之介が「作家として言葉にこだわり持ってるんだよ」というような台詞を発する。なるほどその直前のやりとりで彼が見せた、神経質なまでに和語にこだわった言葉選びや、「忘れた夢と共に、桜は散る」といった詩的なイメージを喚起する独白を受けた台詞として妥当性がある。その一方で、本作の作・演出家の美意識を戯曲全体から拾い上げることは不可能に近かった。例えば、シリアスなやりとりの最高潮で「あの〇〇のやつ!!!!!」と、まるで某お笑いコンビのキレのあるツッコミのような言葉尻はどう受け取っていいのかわからないし、後出しで初出する端役の名前、役者志望の女性が突然ミュージカルを馬鹿にしはじめる(「隣にいる人へのやりとりで、正面を向いて台詞を言う」ミュージカルなんて逆に昨今珍しいと思う。作・演出家は一体これまでどんなミュージカルを鑑賞したのだろうか、興味深い)などは、「言葉にこだわりを持っている」作・演出家によるものとはとても思えない。冒頭で主人公に「言葉にこだわり持ってるんだよ」と言わせてしまったがために、今作の戯曲における言語感覚は二つの美意識が混在した状態となっている。凡庸な鑑賞眼しか持ち合わせない自分にはあえてこの構造を創出した意図を推測することがついにできず、このあたりでかなり気力を削がれた。

③前時代的なジェンダー観
同作に否定的な感想を持った観客の間で、特に共有されていた批判に「男性同性愛者を揶揄するような台詞」があったと思う。これはあるシーンにおいて、桜に龍之介が抱き着かれたことにたいして「そっち系?」というようなニュアンスで発される特に意味のないツッコミの一種である。
断言したい。2020年代の日本の演劇シーンにおいて、こうした表現がストレートに消費者(観客)に届けられてしまう現在の演劇界の構造はまったくもって暴力的で、有害だ。これは昨今激化するトランスジェンダー差別や過激なフェミニスト叩きなどにも通底するのかもしれないが、とにかく今作の作・演出家には#MeToo によってようやく表面化した、自らが所属する演劇業界、エンターテインメント業界の人権意識の欠落、ハラスメントの蔓延、そしてそれらの被害者に思いを馳せたことはなかったのだろうと判断せざるを得ない。そうした人間の無知蒙昧からうまれたマイノリティー差別を助長する表現に、誰よりも自分を勇気づけ、心の支えとなってくれた人が加担させられている状況に我慢がならない。

言いたいことは山ほどあるのですが力尽きたのでとりあえず今回はここまで。近々ネグレクトと認知の歪みの話をしたい。

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