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人と人、点と点が線で結ばれるとき

ここ2年ほど、僕には長らく頭の中で考えてきた大きなテーマがあった。
その間僕は、大きな「別れ」と、大切な「出会い」をいくつも経験して、
ふと「自分の思いを言葉で語ってみたい」と思いたった。
そうしていま、ここでつらつらとブログを書いている。

今日の話題は、単刀直入に言えば「出会いと別れ」の話。

点と点

さて、この記事を読んでくれているあなたのいままでには、
どんな出会いと別れがあっただろうか。

自分がその人と初めて出会った日を思い返すとき、
その人との仲が深まった日を思い返すとき、
僕はよく、点と点が太い線で結ばれるような感覚をおぼえる。

「結ばれ」て「切れて」ゆくものが、縁ならば
あながち間違った比喩表現でもないなと思いながら、
いまの自分が見ている人間関係は、
やっぱり「点と線」という表現がしっくりくるような気がしている。

あなたにとってその"線"、つまり「他者との繋がり」は、
心の拠り所だろうか、常にあり続けるものだろうか、
はたまた儚くて脆く、不安を感じさせるものなのだろうか。

一緒にいて、安心する相手もいれば、なんだか落ち着かない相手もいる。
さらには、社会になじんでいく人もいれば、"一匹狼"を好む人もいる。

線は大切なものではあるけれども、
だからといって、常に、誰にとっても
価値のあるものという訳でもないらしい。

点が先か、線が先か

そう思うようになったのも、僕が"一匹狼"を好む人間だからだ。

多くの人は、繋がりがあってこそ自分の生き方が定まるようだが、
むしろ、僕は「自分らしく生きたい」が先にくる。
自分のなかで自分の生き方が定まる。
そうして初めて他者との関係性に意識が向くようになる。
だから基本は単独行動だ。

たまに自分らしく居させてくれる人が現れて、必要な時だけ一緒に居る。
それが、いままでのサークル仲間であり、ルームシェア生活であり、僕の友人関係や恋愛経験になっている。

どこかの誰かが、僕との関係性を線で結んでくれたとしても、
その力で、僕を社会に縛りつけ、常識を押しつけようもんなら、
僕は"僕"でなくなってしまう。
要らないと思った線は、都度そうやって容赦なくぶった切っては、
一匹狼になることを好む人間だった。

かつての自分は本当に孤独が好きだった。

点から線へ

最近の僕はというと、少しは丸くなったとも思う。
自分という"点"から、誰かとの間に"線"が結ばれていくことを、
素直に喜んでいる自分がいる。

線を容易く切ってしまう自分だからこそ
太い線が結ばれることがあると、その貴重さがよくわかるようになった。
いまある数々の線は、ひとつひとつが尊い線だと思う。

そう思えるようになったのは、2年前に"本当の孤独"を知ったからだ。

断線

いままで周囲にはあまり打ち明けてこなかった過去がある。
それは2021年春、僕が家族と縁を切ったこと。

22年前、この世にひとつの"点"として生まれて、
おそらく人生で初めて結んだであろうそれはそれは太い"線"を、
僕は2年前、みずからの手で、断った。

その理由もやはり、いつも通りだった。
僕を社会に縛りつけ、常識を押しつけてきたから。

生まれてから僕はずっと、ゲイで左利きで、変わり者だった。
少し歪な形をした点で、落ち着きなく動き回る点だった。

そこで家族は僕にもう一つの"点"を与えた、
それは丸く整っていて、とても社会的でおさまりがよい点。
普段は笑顔でいることが大切で、〈普通〉の姿をしていて、
常にみんなと同じであることが大切だと教えてくれた。
そして、このもう一つの点を使って日常を過ごし、
他者と繋がるときは、自分本来の点を使ってはいけないと学んできた。

おそらく家族に悪意はなかった。むしろ、善意なのが恐ろしかった。
僕は、"本当の自分"を大切にすると決めて、その日から家族と縁を切った。

そうして切れた線は、僕と家族の間にあった太い線だけではない。

"本当の僕"と"もう一人の僕"の間にあった、
へその緒よりも太い線までをも、きっと僕は断ったのだ。

こうして僕は、本当の孤独を手に入れた。
正直なところいまでもこの決断に後悔はない。
ずっと一匹狼になりたかった当時の僕は、とてもスッキリしていた。

しかしそれは、いま思えば危うい快感だったとも思う。
切り棄てたのは、ハリボテの自分とはいえ、間違いなく自分の一部だ。

話は変わるが、リストカットをすると、その後一瞬やってくる爽快感と安心感が癖になり、自分を切ることを止められなくなることがあるらしい。
僕は自分の一部を切り棄てたことがきっかけで、
僕と誰かを結んでいる線を切ることが癖になっていた。

生命線

そうやって、完全に孤立した一つの点になりかけていた僕を、
もう一度繋ぎ直し、引き上げてくれた数少ない線が、
所属してきた虹の集いというサークルであり、いまのルームシェアだった。

そうした関係性のなかで線を延ばし、育てていく中で、
自分がどんな点であるのかもよく理解できるようになった。

動点

あなたがもし僕に似た性質をもつなら、
あなたもきっと点になることを好むはずだ。
たとえば、
・自分が思った通りに行動できることが大切で
・なにかに対して突発的にときめく感性を持っていて
・意地でも譲れない人生の目標がある人
つまり、よく動く点で、動く方向も速さもすべては自分が決めるのだ。

わかったことは、僕は"よく動く点"だということだった。

自分の持っている性質にからめて考えると、
起業家・リーダー・芸術家の類には多い性格だとも思う。
なぜならば、これらは制御できないほどの衝動性が生きる仕事だからだ。

この種類の人間にとっては、線で結ばれた関係性に、
安心感や愛着をおぼえることは少し難しいことなのかもしれない。

また、周囲の人間にとっても動く点との間に線を結ぶことは容易じゃない。
せっかく線を結ぼうと思ったのに逃げられてしまう。
やっとの思いで繋いだ線も、容易く切られてしまう。
ざっくり言ってしまえば、僕は人間関係とか社会が向いてない人だと思う。

線描

だからこそ、僕との間に線を結んでくれる人を、
いまの自分なら心の底から大切にしたいと思える。
相性のいい人が限られていること、
相性が悪くなれば縁が切れてしまうことは、
どうしても変われない部分ではあるのかもしれないけれど。

たとえいまこの瞬間だけだったとしても、
誰かととてもいい関係ができていることが貴重なのだ。
人生は、いつも仲間がいる訳じゃない。
本当の孤独を知った自分だからこそ、心底そう考えられるのだと思う。

とはいっても、本来の自分はどれだけ太い線でも切ってしまう人間だ。
自分らしく居られない、自分に合わないと感じた人間に対しては、
果てしない残酷さと無慈悲さをあわせ持っている。
自分のなかに棲む怪物のような自分に、ときどき恐ろしくなるほどだ。

それでも不思議と仲良くしてくれる仲間がいる。
周囲を見渡せば、僕と同じように"点"として生きている人が多くて、
「類は友を呼ぶ」という言葉に妙に合点がいくことも多いこの頃だが、
不思議なことに、線で生きている人ほど自分を大切にしてくれたりもする。

そうしたかけがえのない関わりをとおして、
無感情なロボットが人の心を学んでいくような、SFチックな日常のなかで、
僕は、点と点を線で結ぶ尊さを誰よりも強く感じ、学び続けている。

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