見出し画像

草食?って言われると、もやっとする ~セクシャリティは”流行り”ではない~

「恋愛感情がない、他人に性的な欲求を抱かない、自分はそういうセクシュアリティだと思う」と言うと、「あ、流行りの草食系ってやつね」って言われることがある。

相手は、自分の知っている概念を使って私を理解しようとしてくれたのだろう。

でもね、私、もやっとする。

もやっとの原因を分析してみると大きく2つ

①「流行りの」という言葉について

セクシュアリティは「流行る」ものではない。確かに、最近、多数派のセクシュアリティの人たちにとって、「セクシャルマイノリティ流行ってるよね」って感じられるかもしれない。けれど、それは誤った認識だ。

セクシャルマイノリティは、ずっといる。流行とか関係なくずっと、いる。それが少数派だろうと多数派だろうと関係なく、一人一人の人間として、いる。(そもそも私はヒトは両性愛者か無性愛者だと思っているけれど、その話はここで

ただ、弾圧されてたり、情報が少なかったりで、それを表明できなかった・してこなかっただけ。

「LGBTを否定するようなことは時代遅れだ」と言う人がいる。一見セクシャルマイノリティに理解があるようだけど、根本のところで、「ま、自分は多数派だから関係ないけどね」って意識が見え隠れする。時代が変われば、セクシャルマイノリティは否定されても仕方がないのか。セクシャルマイノリティが否定されないのは、今がそういう時代だからなのか。多数派の温情が少数派の生を左右する、それがデモクラシーなのか。

”流行りの”という言葉は、不平等の構造から発生し、不平等の構造を温存し、不平等の構造を覆い隠す。


②「草食系」という言葉について

社会学者の古市さんは言っている

僕自身、年配の政治家や経済人たちに何度「少子化は、草食男子が増えているからでしょ」といった類のことを言われたかわからない。若者や結婚や出産に踏み切れない背景には、雇用環境や経済的環境などがあるはずなのに、それらが「草食化」という若者の「意識」のせいにして片付けられてしまうー古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』p.90 

「草食系」という言葉は、雇用環境や経済的環境のせいで結婚や出産したくてもできない若者たちの苦しみを、若者たちの意識の問題に還元してしまう。改められるべきは、劣悪な雇用環境や不安定な経済的環境なのに。そこにメスを入れるのは大変だから、若者を「悪者」にすることで解決、というのはお粗末な政策なわけだけど、「草食系」はそんな政策と一体となった言葉だ。

だから、違和感がある。

私はアセクシュアルであるということで、人類の再生産には貢献できない。そのことによる批判は、私がこういうセクシャリティで生まれたことの定めとして、真摯に向き合わなければならないことだと思っている。人類社会の目的は、単純な種の保存だけではないと私としては思うから、必死で平和の種を蒔くとか、親のいない子どもを育てるとか、そういう形で貢献していきたいなって思ってる。人類社会の目的が、種の保存だけなのだとしたら...私はバグでごめんね、って感じ。

セクシュアルなのに、「草食系」と呼ばれている人たち。そういう人たちは、私が負っているような”定め”は負っていない。なのに、アセクシュアルと同じ重荷を背負わされているのは酷いことだと、私は思う。

「草食系」と呼ばれている人たちのなかにはもちろんアセクシュアルの人もいる。その人自身が、アセクシュアルよりも草食系という概念を好むなら、私はそれを否定しない。

だが、現状、多くの場合において、「草食系」という言葉は、(「草食系」でない人たちからの)蔑称として用いられている。

”草食系”という言葉は、力を持っている側の人たちが、弱い立場にある人たちが抱える問題を、全て個人の問題にしてしまい、構造自体の欠陥や社会自体の欠陥を誤魔化してしまう。


多数派にいる人たち、力を持っている人たちは、往々にして言葉の使用に無頓着だ

私は、セクシャリティにおいてでは少数派で力がない側にいる。けれどもちろん、他の分類では、多数派に属するときもある。自分が多数派にいるときには、特に、横暴な振る舞いにならないように、細心の注意を払わねば。丁寧に相手に接する人が増えたら、少数派だろうと多数派だろうとそんなこと意識せずとも心地よくに生きられる世界がくるのではないかなと、楽観的すぎるかもしれない期待を抱きながら。


サポート頂けたら踊って喜びます 学費に充てます