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【発達障害】“開示”か“擬態”か

 障害者にも実は大きな断絶があって、障害があることを分かってもらいたいグループと、障害があることをうまく隠して普通に見られたいグループがあります。この2つの溝は深くて、すげー仲が悪いのだけど、それもまた障害者って言葉が持つ多様性なんだろうなーって思ってます。

Twitterより

 自分は“開示”したいグループに属していると思います。その理由としては、開示して周囲に障害特性を予め知らせないと、トラブルが生じやすいことを痛感していること、一定の配慮を得ないと周囲のレベルについていくことが困難だと感じているからです。

 それと、“擬態”するにはエネルギーを使います。自分は体裁を守りながら支援職をこなすといった、器用に立ち回るキャパも余力もないです。“擬態”を選ぶことは「過剰適応」に陥る可能性が高いです。

 さらに自分は精神領域に関わる支援職として、対象者に「病気や障害と上手く付き合っていきましょう」と伝える立場もあるので、自分が自身の発達障害とうまく付き合えていないと支援に矛盾が生じます。
 それでは対象者に対して一貫性のなさが露呈し支援の軸がぶれると思います。そのような状況なので“擬態”という選択は初めから無かったに等しいです。
 もし”擬態”を選んだら、自分の中で矛盾した支援を提供している様になり、それに耐えることもストレスですし声がけの歯切れが悪くなるのも嫌です。
 認知的不協和が生じている状態が継続するのは、思った以上に負担が大きいです。

 しかし、“擬態”したい、せざる得ない人がいることも理解はしているつもりです。
 最近放送されている「僕の大好きな妻」で、発達障害を抱えている妻が言った「普通に生きていくことをまだ諦めたくないんです」というセリフがありました。 

 普通に生きたい人たちにとって、障害の“開示”は場合によっては敗北や諦めを意味し、それに向き合うことは耐え難い苦痛を伴う可能性が高いです。その様な状況では、“擬態”の一択しかないのも理解ができます。
 あくまで個人的な解釈ですが、そこには「みんなと違うから排除される」と感じることへの怖れと「社会のお荷物と認定される」ことに対する恥が潜んでいるように思えます。

 社会参加をする上で、仕事などの活動をしながらも、取り繕う余裕がある場合は、“擬態”という選択肢もありだと思います。
 自分の場合は、たまたま精神領域の支援者だったので、“擬態”という選択は初めからありませんでしたが、もし支援職とは無縁の一般のサラリーマンだったら、取り繕っても負担も少なく活動への支障が生じない場合は、“擬態”という選択をした可能性も十分あります。

 “開示”によって普通を失ってしまうリスクには恐怖や悲観が伴うかもしれません。例えば一般的な恋愛や結婚、サラリーマンとして家庭を持つに耐える収入を得て、社内で出世する様な成功が遠ざかることも否定できません。
 “擬態”を選ぶ本当の理由は、例えば、自分の子どもが精神、知的、発達障害者と結婚することを素直に喜べる親がいるかを考えた時に浮かんでくるイメージが一つの答えだと思います。


 “開示”派と“擬態”派では、確かに意見の対立は大いにあると考えます。同じ障害でも立場の違いがわりと鮮明な印象があります。

 “開示”派は、障害受容を経て普通の価値観から脱している立場で、“擬態”派は、まだ普通を諦めたくなく、障害受容も一定のラインで止めている印象があります。

 “開示”派は、“擬態”派に対して、もやもやした印象を持っているでしょう。半ば投影同一視をしてると言えるかもしれません。
 “擬態”派は、“開示”派に対して、障害受容をまるで強要するかのような圧力に反感があるかもしれません。

 同じ発達障害者でありながら全く異なる思いが存在するのが、この障害の難しさなのかもしれません。

 単純に「同じ障害者同士、仲良くしようぜ」と一筋縄でいかないのも「発達障害」が持つ“多様性”の一種なのだと思います。


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