今回は、発達障害の生きづらさを凝縮した記事を久々に読んだので、こちらをご紹介しつつ、自分の意見を述べていこうと思います。
まずは、記事の要約を以下にします。
この記事を読んで、自分は発達障害、特にASD(自閉スペクトラム症)の生きづらさが凝縮されていると感じました。
理解を得られないという点は、以前、合理的配慮について記事にしたので今回は割愛しますが、自分が思う特徴的な点を述べます。
まずは「メタ認知の弱さ」です。自己の客観視がASDの人は特に苦手と言われています。
今回の記事からは、「家庭内の対立と将来の展望」と「自身が与える被害への無自覚」という項目から、それが読み取れます。
自分も「メタ認知の弱さ」に関しては現在も弱みとして感じています。自分の言動が周囲にどう影響を与えて周りを不快にさせているかという状況判断を誤ることが多いです。
また、自分という存在を時間軸で俯瞰して、過去、現在、未来と自分の価値観や展望に照らし合わせて、連続体として見ることも苦手です。一般の健康的な人は、自分と周囲を俯瞰して見ながら、自分という存在を時間の連続体として捉え、適宜軌道修正できる人が多い印象です。
以前、「発達障害と地獄めぐり」という記事を書きましたが、発達障害の人は不器用な人が多く、多くの失敗や否定的体験を健常者よりも重ねやすいです。それゆえ摩耗し、疲弊しやすく厭世的になることがあります。
もう一点は、メリットが得られないこだわりの強さです。この記事の方は「生活保護になるくらいなら、野垂れ死んだほうがいい」と生活保護を強く拒絶しています。おそらく自尊心への執着が強いのでしょう。
その背景には、仕事で思うような成功を求め、中流階級以上の暮らしを望み、自分の好みの異性と愛情を紡ぎ、子どもを残したいという理想があるかもしれません。
しかし、生活保護を受けることは、自分の自尊心が打ち砕かれ、理想を諦めなければならないという状況に対する強い拒絶があるのだと思います。
もし、上記のような状況なら、自分の場合はまず現状を受け入れ、自分の願望を一旦諦めます。そこから精神科を受診し主治医と相談し、デイケアに通う、就労移行支援施設に通うなど、社会資源を紹介してもらい、場合によっては生活保護も受給します。
まずは就労よりも自分の健康と安心できる環境を整え、適切な社会資源に繋がり、安心して相談ができる環境に身を置くことが現実的ではないかと考えました。
この中で一番難しいのは「諦める」という過程でしょう。自分がASD当事者として難しかったのはこの「諦める」という過程でした。具体的に何を諦めたかというと、「恋愛」「社会的成功」「同級生と同じように」です。
ただ、諦めて絶望したかといえばそうではなく、別になくても楽しく生きられるという気づきでした。
すべてができないというわけではなく、少しは自分にできることがあるはずです。その強みに焦点を当てつつ、この記事に登場するジュンイチさんにも希望の光が見えればいいなと思いました。
今回は、久々に発達障害の生きづらさをテーマに記事を書いてみました。最後までお読みいただきありがとうございます。
【参考資料】