見出し画像

美味しく飲んで、意識せずいつの間にか健康に。カテゴリー・クリエイターへの挑戦 Vol.66

私は漫画少年であった。

子供の頃になりたかったものは、漫画家かアウトロー。
元来飽きっぽかったのであったが、漫画を描くことだけはそれに当てはまらなかった。
それだから、小さい時分の私は、基礎的知識を漫画から得たと言っていい。漢字、語彙、節回し、そして活劇などを様々な漫画から吸収した。勿論、その後、テレビドラマや映画、そして書物などへと発展してもいくのだが、ベースは相当漫画が占めていたのだった。

画像1


私が、物心が付いて漫画を読み出した時分、まだホンの小さい頃。そう、レベッカのNOKKO(153cm)よりも背が低く、ドラミちゃん(100cm)よりかは高かった(横幅では、おさおさ引けを取らなかったけどね)その頃ですら、実は手塚治虫の黄金期は少し過去のことだった。その当時には次世代である石森章太郎(当時。ほんとにこの人は何故改名などしたのだろう?)、永井豪、藤子不二雄、赤塚不二夫などがもっぱら主流の漫画家となっていた。

勿論、鉄腕アトムも知っていたし、他の何冊かも読んだけれども、それはやや古典的なものの様な扱いであって、リアルタイムのものではなかった。
それに当時は青年向けの作品も手がけていて、その暗めな大人な作品、俗に言う「黒手塚」が割とウケたのと比例して、少年誌では既に古いタイプの漫画家という扱いだった様に思う。
それは、自らの夢であるアニメーション制作の為の会社であった虫プロダクションが、既に手塚治虫の作品ではなく、『ムーミン』や『国松さまのお通りだい』などを制作する様になっていたことにも現れている。
失望した手塚治虫は虫プロの社長を辞任、作品作りへの口出しをやめた。

画像2


虫プロ制作による手塚作品のTVアニメ化は、1969年の『どろろ』が最後であった。1972年に放送された『海のトリトン』は、虫プロが経営難で混乱していた時期だった為、東映動画の下請けスタジオで制作された。
手塚治虫のマネージャーだった西崎義展が版権を抑えプロデューサーに、当時フリーのコンテマンとして虫プロ作品に関わっていた富野由悠季(当時は富野喜幸)が初監督した。
富野監督以外は、殆どが虫プロスタッフではなく、”異常”に稀なことだが手塚治虫も一切制作に関与しなかった。
ストーリーも、キャラクターの設定だけを生かして、富野監督が一から練り直したという、手塚アニメとしては極めて異例な作品だ。

結果、「テレビまんがのトリトンは自分の作ったものではない」、「自分は原作者の立場でしかない」と、しばしば手塚治虫は読者に断りを入れている。
また、後に富野監督は、ストーリーの改変については、かなり自由に任せてくれたことを回想し、これを、「手塚治虫自身が原作を失敗作だと考えていたのではないか」と相変わらずの余計な一言を口にしている。
どうも富野由悠季という人は、ひね者発言をすることが、作家性を表す手段であると同時に、自分というキャラクターを発現するものであり、且つ、ファンサービスでもあると捉まえている様だ。

そして、この『海のトリトン』制作時に於いて、手塚プロダクションに対してなんらかの不義理を働いた西崎義展は、手塚治虫及び、経営層と決裂。手塚治虫は、名前を聞くだけで激怒するほど彼を嫌い、生涯許すことはなかったと言う。
そして、とばっちりを喰らい、富野由悠季も以後虫プロを出入り禁止となった。

後に西崎義展は『宇宙戦艦ヤマト』で、脱税するほどの大ヒットを飛ばし、伝説的に悪名高いプロデューサーとなる。また、富野由悠季は『機動戦士ガンダム』で、その名を世間に知らしめる。
因みに、『宇宙戦艦ヤマト』の制作時、西崎義展は一度、富野由悠季にコンテを発注したことがあるが、シナリオを無視して大いに書き換えてしまったことに激怒し、それ以来、この二人も交渉が途絶えたと言う。
いやはや、あまりにも、あまりにもpretty goodでso interest。
面白過ぎですね。

と言うか、こりゃもう一体なんの話?

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?