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短編小説「アコンカグア」

マドンナが、こんな所へ居てはいけない。

箱崎の元へ、実家から母校のタイムカプセルの掘り起こしを兼ねた同窓会の招待状が転送されてきたのは先月下旬のことだった。箱崎家は墓を持たない。だから、お盆に帰省したことなど無かった箱崎だったが、なにしろ金が無い。帰れば足代として幾分かは貰えると思い、箱崎は往復切符を買った。東京に留まる熱烈な意志があるわけでは無かったが、出張手配時の癖でそうしていた。

「家に帰るまでが遠足です」

小学生の時、担任のY先生が繰り返し言っていたのを思い出した。遠足ではなくても仰っていた。毎日言っていた。こんな慣用句は、仮に自分が教師だとしても口にはしないと箱崎は考えたが、その後、Y先生が雪山で遭難してしまったことを思うと安易に馬鹿らしくも思えなかった。

箱崎は、バックパックに1週間分の着替えを詰め始めたが、洗濯すれば良いだけのことに気がつき、荷物を半分に減らした。カッターシャツを2枚、Tシャツを1枚、ジーパンとコットンパンツを1本ずつ、各々をジップロックに分け入れ、下着と靴下は着いてからコンビニで買うことにした。中身を再確認すると、雨具と軍手、懐中電灯が出てきて箱崎は一瞬驚いたが、それは野外生活を一から教えてくれたY先生を偲ぶ感傷に由来するのではなく、単にタイムカプセルを掘る装備だということに気が付き安堵した。懐中電灯を試しに点けてみた。案の定反応しなかった。電池の消耗を防ぐ為、逆向きに入れてあるからだ。箱崎がY先生に教えられた小技だ。

Y先生は、このようにして我々の中に生き続けているのだと箱崎は思わされた。Y先生の生徒で無かったら、娘に天の川を指し示しながら七夕の悲恋を話して感心されることも無く、恋人と訪れるプラネタリウムが睡眠装置と化す人生を送ったのかもしれない。北と南が分からないまま、右と左だけで生きていく暮らし。都市生活において実益は無いのだが、北と南が把握できることは、箱崎にとって自己と切り離せない何か重要なことのように改めて思った。方位磁石を持ち歩くのではない。腕時計の中心に手帳用の小さなペンを立てるのだ。時計板に落とされた影が、方角を教えてくれる。商談がまとまらなかった時、箱崎はそのようにして自分を癒してきた。

最後の取引が破談したのは、夏至の夜だった。

箱崎は滅入った。退職金は、家のローンに消えた。支払いきれてよかったじゃないと、箱崎は別居中の妻と娘に褒められた。問題は、当分食い繋ごうと妻に無断で質に入れた義母の形見のバーキンだ。箱崎は、そんなものを置き去りにして家を出ていくなよと思う。しかし、試されているようでもあり、見てくれはどうでもいい、金を作ってやろうと思った。

懐中電灯?

Y先生は、長期休暇を利用して7大陸最高峰登頂を目指す登山家でもあった。Y先生は定年退職後、公募登山隊に参加して南極のヴィンソン・マシフに赴き、それは達成された。他のどの山よりも莫大な旅費と保険金が要ったのだろうと箱崎は思う。職を辞して直後、入った金をそのまま使ったであろうY先生に、箱崎は親近感を抱き始めた。

Y先生は下山途中、行方不明になった。箱崎が入社した年だった。

帰って来ず、遺体も見つからず、失踪扱いでしばらく保険金が降りなかったY先生の家族は、Y先生の残した手記と家族宛の手紙を学費と生活費の補填のため、地元新聞社に持ち込んだ。ぼんぼん学校とあだ名される箱崎の出身校のイメージにそぐわぬY先生の奮闘は、ある一定の支持を得た。Y先生の家族は、晩年から遡ってそれらを出版した。箱崎は、不思議に思った。コジオスコ、エベレスト、エルブルス、マッキンリー、キリマンジャロ。いつになっても、最初に登攀したアコンカグアを目指す日々が刊行されない。

箱崎は、逆行するのは時間稼ぎだと思い至った。Y先生の家族は、知らないのだ。箱崎や、彼の同級生が描かれているはずの、Y先生の青年期を。そして、その記述を。そこには、昼休みにランドセルの綻びを繕うY先生、箱崎が黒板に筆算を書きつけるY先生の背中目掛けて飛ばした紙飛行機を盲目の侠客が見せるような俊敏な身のこなしによって素手で握り潰すY先生、箱崎の学校へ赴任したてのY先生が大雨の後に市街地の川でオオサンショウウオに遭遇して警察ではなく救急車を呼んで詫びてしょげる様が活写されているはずだった。

不思議と箱崎に戸惑いは無かった。埋める方が、よっぽどどうかしていると箱崎は思った。一足早くタイムカプセルを掘り起こそう。箱崎は前夜を狙った。

懐中電灯ではなくランタンの方がよかったと思い直し実家に引き返している途中道、箱崎は、かつてのクラスのマドンナ、梓に出くわした。映画女優、渡辺梓。梓は、シャベルを担いでいた。左手にはランタンを持っている。今更、意気投合しても。箱崎は思った。

2人は、懐中電灯係とシャベル係をそれぞれジャンケンをした上で決めた。梓は、子どもの頃から何をしても要領が良かった。数分で掘り当てた。箱崎は、梓を照らしながら惨めな気持ちになりかけた。しかし、容器の蓋が雨漏りを避けるよう下向きに埋められていることに気がついた箱崎は、梓に労いの言葉を掛け交代を促し、意気揚々とひと回り大きく穴を掘り広げ始めた。梓は、箱崎を見下ろしながら蟻地獄とはこのような感じなのだろうかと、ややトンチンカンなことを考えた。やがて梓は、

「箱崎君は、何を埋めたの?」

と箱崎へ尋ねた。沈黙する箱崎の機微を介さずに梓は、

「私は、未来の私に向けた手紙が恥ずかしくなって。だって、良いお嫁さんになってとか書いた気がするから……」

と言った。

「3回も結婚出来るなんて凄いことだと思う」

と箱崎は、言いようによっては梓が賛辞とも皮肉とも受け取れることを言った。かつての箱崎は梓を好いていた。梓は、成人式の帰り、酔いに任せて求婚してきた箱崎をその夜、こてんぱんにやっつけておいて正しかったと思った。その日、祝辞を述べるY先生が梓にとっては最後だった。体育館から出ると吹雪いていたこともあり、梓は、その日、Y先生がそのまま消えてしまったかのように思っている。

箱崎は違った。確実に見送った。空港のロビーで、箱崎をはじめ、教え子や支援者に囲まれたY先生は、

「グッドラック」

と小声で言った。箱崎が言い返したく思ったことは、誰かに先んじて言われてしまったので黙って笑った。それきりY先生は、帰って来なかった。消息を絶ったと知らされても、箱崎はY先生を冬眠する熊のように思っていた。

やがて捜索活動が打ち切られたとの報道を受け、はじめて箱崎はY先生の不在を思った。互いに生き続けても、会うことがあったのかどうか分からないにも関わらず、箱崎は平凡に悲しんだ。

しかし、嬉々として穴を掘り進める男もまた、箱崎なのだ。

箱崎は、スニーカーを履いてきた自分を得意に思った。長靴はいけない。膝周りから、土が入ってきてしまう。五面露わになった。箱崎が蜜柑箱より重いものを持ち上げるのは久しぶりだった。娘を肩車して以来だ。箱崎の老齢を迎えようとしている両親は、箱崎夫妻の別居を知らない。箱崎は、妻が柑橘類を嫌うことを最近知った。離れて暮らしてはいるが、妻と分り合い始められたのだと箱崎は心身を漲らせた。

梓は、箱崎が担ぎ上げたタイムカプセルを受け取った。そして、全て六面体はサイコロだと言わんばかり手際よく転がした。

梓は懐中電灯を消した。

「明日晴れだって」

と、梓は言った。

箱崎のリュックサックを投げ入れてやるのは、親切というよりは偽善だろうと梓は思いやめた。梓は、傘だけでも放っておいてと言わない箱崎を憐れんだ。梓は、広げたピクニックシートに中身を調子良く並べていった。梓は、蓋を開けるのに手こずると思っていたのだった。梓は気がつくと、八神純子の「みずいろの雨」を口ずさんでいた。最近娘に、シティポップが世界中でリバイバルしていると聞かされて、新鮮に思っていたのだった。すかさず本人歌唱が流れてきたので梓は憤った。しかし、梓は手元から通報はせず、鷹揚に振る舞う箱崎をあっぱれだとも思った。

梓は箱崎の振る舞いに構わず、娘が熱心に歌いこんでいた松原みきの「真夜中のドア/Stay with Me」を完唱した。”帰らないでと泣く”ひとを贅沢に思った。

梓の手紙は湿り気を帯び文字が滲んでいたものの、最後まで読み通そうと思っていたわけではないので問題なかった。丸っこい字、尖った字、缶バッヂ、自画像、観光地の記念メダル。

”雪絵ちゃんへ”

端正な字体だった。梓はジップロックを開けた。今にもチョークが黒板に立てる音がしてきそうに思う。梓は裏返した。

”父より”

と書かれていた。梓は箱崎の名を呼んだ。箱崎に何を言われようが、返事さえあればそれで良いと思った。決して相談したい訳ではないのだ。梓は決めた。

梓は始発を待ち、Y先生の家に行くことにした。梓は通学路で新聞配達の自転車とすれ違い、訪ねるには早すぎると思った。そこで、手紙はY先生の家の郵便受けに入れ、帰ることにした。

Y先生の家のポストに投函した後で、あまりの静けさに梓は、空き家ではないのかと不安になった。加齢しないY先生の印象に引きづられて、”雪絵ちゃん”が、家を出ていてもおかしくは無いとは考え付かなかった。想像力の欠如。演出家の灰皿が飛んでくる、と梓は思った。

梓は自分の迂闊さに動揺した。即座に梓のしたことは、郵便受けの挿入口に手を突っ込むことだった。摘めるのに、どうして持ち上がらないのだろう?梓は、人の手首の可動域には限りあることに気付かされた。それでも梓は格闘した。

雪絵が近くに停めたワゴン車から掃除用具を持って実家へ向かうと、郵便受けに右手を挟んだ梓が立っていた。その顔は、テレビを持たない雪絵にも見覚えがあった。週刊誌のカメラマンが捉えて美味しく思いそうなラフな装いに、著名人でもゴミ出しの時は着物もドレスも着てはいないのかと、当たり前のことをちぐはぐに思った。

「ごめんなさい、先生の教え子なんです。先生の手紙を届けに来ました」

と言った。続けて自己紹介を受けた。もっと他に言うべきことがあるだろうとは思ったが、丸腰の有名人に警戒する理由もなく雪絵は挨拶の言葉をかけた。雪絵は玄関側からポストを開け、梓が指を伸ばして外へ出せるよう手伝った。丁重な謝罪の後、即座に立ち去ろうとする梓を雪絵は引き留めた。雪絵は、

「父は、こんな字を書くんですか?」

と梓へ問いかけた。梓に、

「先生の文字は黒板書きしか見たことがないから分からないです」

と言われ、雪絵は挫けそうになったが、確認を取るまでもなく、それは父の手文字だった。残された手記を見て、雪絵は育ったのだ。書道家の凄みはないけれど、賞状の名前はこのような字で書かれたい。そんな類の筆跡。雪絵は、梓を家へあげた。梓は、

「手ぶらですみません」

と謝った。雪絵は、梓を妙な気の利き方をする人だと思った。手紙の他、何を持って来ようと思ったのだろうか。コンビニで仏花が売っていれば買って持ってくる人なのだろう。雪絵は、そう思うことにした。二人は手分けして急須を探し、見つけ出したものの茶葉はなかった。この家は時折、雪絵が片付けに来るだけなのだ。

二人は縁側に腰掛けた。

梓は、

「よかったら私が読み上げましょうか?」

と雪絵に聞いた。雪絵は、

「お願いします」

と言った。雪絵は、父の残した手記に娘の自分に関する記述が一切残されていなかったので、自分に宛てられた手紙に戸惑っているのだった。

「”雪ちゃんへ”」

梓の声には、人前に立ち続ける者だけに許される艶めきとひたむきさがあった。作り物をある種の真実に化かす職能だ。

「”雪ちゃんは、いつお父さんから白蝶貝のカフスボタンを1つ貰ったか、覚えてますか?”」

雪絵は、洋菓子の缶へ一緒に詰めた天満宮のお守りと、ペコちゃんが見切れずに10人入ったミルキーの包み紙を思い出した。その入れ物を振ると音を立てるのが、カフスボタンだった。

「”そのカフスボタンは、お父さんの大切なお友達が、雪ちゃんのお母さんからプレゼントされたものです。持ち主のお友達は、そのカフスボタンをつけて、お母さんと結婚式を挙げることにしていました。気持ち悪く思うかもしれませんが、それが本当です”」

雪絵は、梓の言うことは本当だと思った。

「”お父さんは、その結婚式の余興で弾き語りをするために、奮発してギターを買ったのに左手の小指の先が凍傷でダメになってしまったし、そのお友達は、お父さんとアコンカグアを下山中に死んでしまって、お父さんだけが助かったのです”」

雪絵は、字面を思い、悪文だと思った。句点まで遠い割に、流麗さに欠ける。

「”ひとり生きて帰ってから、正直ずっと生きた心地がしません。お父さんは、お友達の形見に、お友達がお守りに持っていたカフスボタンを持ち帰りました。お友達は、最期にお母さんをよろしく頼むと言いました。お母さんのお腹の中には、雪ちゃんがいました。お父さんとお母さんはお友達に内緒で、愛し合っていたのです。お友達とお父さんは、登頂後に吹雪かれて立ち往生しながら、やっとのことで雪洞を1つ拵えました。雪ちゃん、こう言うのをビバークと言います”」

梓は、

「先生だね」

と言って笑った。雪絵は可笑しくなった。

「”雪ちゃん、お父さんの若い頃には、不具者というひどい言葉がありました。お友達は、お父さんと雪洞で夜を明かしながら、自分自身のことを指して、不具者と言いました。お友達は、中学生の頃、素行不良と言われ施設に入れられて、赤ちゃんが生まれないようにされたと言うのです。いざとなったら、お前に頼みたいと、お友達は言いました。お父さんは、お友達にとても同情しましたが、お母さんをモノのように言うお友達を許すことは出来ませんでした。お父さんは、お友達にひとでなしと言いました。明らかに、言葉が足りませんでした。お友達は、外へ出て行きました。晴れた朝、お父さんは、お友達を探しました。お友達はスコップを握ったまま死んでいました。お父さんは、悪いことをしたと思いました。お父さんは、死ぬときは山で死のうと決めました。いつか、もう1つのカフスボタンを雪ちゃんにあげた時がその時です”」

雪絵は、梓を駅まで送ったが、もう1つのカフスボタンの所在をついに聞かれなかった。雪絵は、母に知られずに済んで良かったと思った。

雪絵の研究室に梓からの小包が届いたのは、翌年暮れのことだった。雪絵は興味本位で住所を調べたが、ヒットしたのは大手芸能事務所の所在地だった。雪絵は、その距離感を清潔だと思った。

中には、礼状と梓が制作した映画の試写会招待状が入っていた。「チャタレイ夫人の恋人」の翻案劇とのことだった。謝辞を述べられる覚えはなかった。写真で見る父は、森番も務まるような頑丈な身体をしており、雪絵の母は裕福な家庭で育った知的で、たおやかな人だったが貴婦人ではなかったからだ。彼らには、互いの肉体讃美よりも、夫婦漫才が似合っているように雪絵は思う。

何をどのように置き換えたのか?

雪絵は、背表紙の並びを整えた。梓は、ただ思いついただけなのだ。怜悧さを取り戻した雪絵はそう思い至った。少なくとも、私たち家族の話ではない。他人宛の手紙から駆動し出す梓の創作意欲を讃えよう。そう思った。

仮眠から覚めて、机上に積まれた学生のレポートを汚すおそれのない簡易な夜食を摂る雪絵の頭に浮かんだのは、雪山で頬を焦がした父が、楚々としつつ豊満で迫力ある体躯の絶世の美女、梓と抱き合う模様だった。

雪絵は、そのあくどさに救われ、微笑した。父は、氷を沸かしてお湯を作ったのか、と麺を啜りながら、雪絵は思った。それだけのことだった。


Fin


参考文献
「二十世紀の英国小説 文学と思想の間」 三浦雅弘著

「完訳 チャタレイ夫人の恋人」D・H・ロレンス 著 伊藤整訳

「極北に消ゆ」明治大学山岳部炉部会編

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