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ヴィヨンの妻の正しい狂気について

もうすっかり空気が秋めいてきて、寝るときに毛布を引っ張ってくるかもしれないなと思って、しまっておいた毛布を洗濯することにしました。
洗濯機を回している間、特にやることがなかったので、今はあまり使っていないトートバッグの中に入っていた、太宰治の「ヴィヨンの妻」を救出して、表題になっている作品をを読みました。いま。秋だしね。(?)
私は文学に明るくないし考察とか時代背景とか太宰の性格とか他作品を含めてこれを読んでいないので、まっさらな読者の意見として書かせていただきます。(ちょっとは流石に関連するけど)

これはある作家の(事実婚みたいになってますが)妻の話です。夫は酒、女にだらしなく、まだ幼い子どもがいるのに家には滅多に帰ってきません。そんな夫が珍しく帰ってきた時、夫の行きつけの店の夫婦が「泥棒をされた」と家に凸ってきます。見つかった夫と店主がつかみ合いになり、夫はナイフをちらつかせて夫婦を脅します。(泥棒したのに)
そんな緊迫した状況なのに、妻はけろっと二人を家にあげ、話を聞きます。

この「ヴィヨンの妻」、恋と呼ぶには湿度がなく、愛と呼ぶには超越している。そんな印象です。ポジティブな人間が必ずしもいついかなる時もけろりとしているとも私は思えないです。しかし彼女はなんだかずっと不気味なほど前向きと言いますか、喜怒哀楽の怒哀が抜け落ちているみたいに思えます。絶対マキマみたいな目をしています。笑

彼女は当たり前みたいに、彼のために翌日店に赴き、なんの罪悪感もなく嘘をついてお金を工面できるといい、するりと器用に、人質と言って店で働き始め、その器用さには唸るしかありません。

働き始めても彼女はナンバーワンホステス並みの接客を繰り返し、ファンのような人もできるくらいの技量。もはや生き生きしています。

眼のまわるくらいの大忙しで、二日に一度くらいは夫も飲みにやって参りまして、お勘定は私に払わせて、またふっといなくなり、夜遅く店を覗いて、「帰りませんか」
とそっと言い。私も首肯いて帰り支度をはじめ、一緒にたのしく家路をたどる事も、しばしばございました。

ヴィヨンの妻/太宰治

現代風に書くと、浮気は当たり前、酒ヤクザで、犯罪を犯していて、子育てなんてもちろんやらず、かといって家庭にお金も入れない男に対して、たのしく帰れると思っていることを考えると軽く震えます。というかお金払わせてるやん。

だけどなぜかこの描写からは強く幸せが匂い立ちます。二人が仲睦まじく、暗い夜道を歩いているのが容易に想像できます。超越している。ひどい戦争の後に芽吹いた一輪の花みたいです。彼女には水を貰おうとか、豊かな土地に植え替えてもらおうとかそう言った気が一切ないようです。

「なぜはじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」
「女には、幸福も不幸もないものです」
「そうなの?そう言われると、そんな気がしてくるけど、それじゃ、男の人はどうなの?」
「男には不幸だけがあるんです。いつも恐怖と戦ってばかりいるのです」

ヴィヨンの妻/太宰治

「女には、幸福も不幸もないものです」とか言われたら私ならバチギレしてますが、彼女はとっても幸せそうです。彼が言いたいのは、「幸福も不幸も選べるほど賢くないし、そんな地位もないし、そんな暮らしも送っていないだろう」ということなのでしょうか。そう解釈すると、今の時代、いちおう自由に暮らすことができるようになった女に幸福や不幸が生まれたのでしょうか。

そして「男には不幸だけがある」というこの強めの語気があまりにずっと太宰治。「僕には不幸だけがある」って言え。

私が妻だったら、「私の幸せがお前に100%わかるわけない。あと主語がでかいねん。あと何でもかんでも達観したふりすな」と言ってしまう気がするので、きっと妻になれません。

そんな私も「女の幸せ」とかにはぐちぐち考えてしまう方なので、根本的には彼と同じ部類なのかもしれません。(私は自分の代弁者が太宰だと思ったことはないですが)

そんな中、彼女だけは違います。ただ生きることは狂気に近いと私は思いますが、圧倒的に清く強く乾いていて、それでいてみずみずしい魂を感じさせる、彼女らしい言葉を最後に言います。

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」

ヴィヨンの妻/太宰治



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