見出し画像

【エッセイ】いとしのブラック・ジャック先生

 主治医は美丈夫だった。つまりはイケメンだった。

 耳鼻科の診察室に入ると、マスクとフェイスガードをした医師と思しき男性が座っていた。マスクをしているために顔の全体を把握することはできないが、目や眉の造形、輪郭の印象から整った顔立ちであると判断した。そして自分が想像する「医師」よりもずいぶんと若そうなことに驚いた。30代に見えた。
 私は彼が自分の主治医だとにわかに信じることができず、初診だからまずは若手の医師が様子をみるのだろう、などと考えていた。しかし予想に反して彼は、慣れた様子で診察し、迷うことなく数種類の検査を指示した。
 ああ、この人が主治医なのだ、と私はその振る舞いを見て確信した。すこし嬉しかった。

 小学4年生のとき、教室にブラック・ジャックの漫画が置いてあった。学級文庫というわけではなく、担任の先生の私物で、自由に読んでいいことになっていた。
 私はそれによって人体や病気についての偏った知識を手に入れ、人生の喜びや悲しみを知り、ブラック・ジャック自身や登場する人々や社会が抱える問題や事情に思いをはせた。
 モグリの天才外科医という肩書がとんでもなくクールに思えた。メス一本で生きている感じがいい。岬の小さな家に住んでいるのもいい。しかも高額な報酬を要求するくせに、貧乏人からは結局金をとらない。インナーが白いランニングだってかまわない。ピンチのときの「ナムサン」もピノコの「アッチョンブリケ」もいい。スマートな体型もすてきだ。

 首もと、甲状腺に腫瘍ができていた。
 入院を伴う手術をすることになっとき、彼は言った。「切開して行う手術は他の医者でもできますけど、内視鏡を希望するならぼくしか対応できません。」
 その自信が、嫌味に聞こえなかった。もちろん彼としても、ただ事実を述べただけだっただろう。私はそれにやられてしまった。
 かくして主治医は、私にとってのブラック・ジャック先生となった。
 その後の数回の診察でわかったことは、長身でスマートであること。声がよく通り聞き取りやすいこと。堂々としているが偉そうではないこと。物事をはっきりと告げてくれること。無駄なことは言わないこと。
 もとより疑っていたわけではないが、信頼が増していくのを感じた。

 手術は無事に終了した。
 入院しているあいだ、朝の診察で毎日顔を合わせるほか、ブラックジャック先生はときおりふらりと病棟や私の病室に現れた。体調を確認する程度に声をかけてくれる。
 一度だけ、6階の病棟から1階の診察室まで連れだって移動した。エレベーターでふたりきりになってしまい、柄にもなく動揺した結果、最高にどうでもいい言葉を言ってしまった。
「先生、診察室の外で会うと背が高いんですね。俳優さんに似てますね」
 ブラックジャック先生は少し面食らったように誰に似てますか、と言った。私はディーンフジオカと斎藤工をブレンドした感じだと伝えたかったのだが、あろうことかディーンフジオカの名前をなかなか思い出すことができず、えーとえーと、と言っている間に無情にもエレベーターは1階に到着してしまった。
 こんなことなら、素直にイケメンですねって言えば良かったと後悔した。今でも後悔しつづけている。

 看護師によると、ブラックジャック先生は40代前半で既婚者らしい。イケメンだよね、と言ったらイケメンですよねー、と言っていたので、私の認識もそんなに世間とかけ離れていないと安心した。
 手術から4日後、ドレーンを抜いて退院の許可がおりた。先生いわく「最新の手術方法」をとったので、抜糸は不要だった。縫わない代わりにテープを貼っておく。
 手術はそれほどつらくなかったし、入院生活もそこそこ快適だった。なにより、ブラックジャック先生の姿を見かけると気分が良かったので、退院して日常に戻ってゆくのが少し寂しかった。

 2週間後、腫瘍の鑑別結果を聞くために再び受診した。
 結果は良性腫瘍だった。
 再発のおそれはなく、血液検査の結果も良好なので、経過観察の必要はない。もう受診しなくていいとのことである。
 ブラックジャック先生は傷の様子も見ずに一件落着ですね、とさわやかに言った。なにかあれば、また受診してください、とも。
 私はありがとうございました、と口に出して言い、心のなかでさようなら、とつぶやいた。もう受診しなくていいということは、もう会うこともない。
 しかし、治療が終わったとてブラックジャック先生が私の主治医であることに変わりはないのだ。そう思った。

 自宅に帰り、傷に貼ったテープを交換するためにはがしてみた。1ヶ所だけ黒い点のようなかさぶたになっている。気になって毛抜きでつまんでみると、その黒い点はびよんと伸びた。先端は皮膚の中に残ったままだ。
 糸だった。
 縫合していないと思っていたが、真皮は縫ってあったらしい。その糸が何かの拍子に傷口から飛び出てしまったようだ。
 一瞬、病院にかかることを考えたが、予約して休みをとり、車で1時間半かけて病院に行くことが、途方もなく面倒に思えた。さっきまで病院にいたのだからなおさらだ。
 結局、糸は毛抜きでつまんでハサミで切った。
 パチリ、と音がした。
 私とブラックジャック先生の患者と主治医の関係が途切れる音のようだった。
 切ったのち、糸は傷口に引っ込んで見えなくなった。その後、傷は順調にふさがっているようだ。
 これでほんとうに、一件落着である。

 しかしひとつだけ、最後までブラックジャック先生のマスクを外した顔を見ることができなかったのは心残りだ。
 

より素敵な文章となるよう、これからも長く書いていきたいです。ぜひサポートをお願いいたします。