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「とりあえず、とりあえず」の奇跡が起こった!


  「人生には2通りの生き方がある。1つは、奇跡を信じない生き方。
         もう1つは、すべてを奇跡と信じる生き方だ。」 
              (アインシュタイン)

人類の至宝、アインシュタインはこの”奇跡”という言葉に何を託したんでしょう?

ダウン症、自閉症者・・・。

かのじょがこの関西に来る前に働いていた重度の知的障害者施設で起こったことを書きます。

もっとも奇跡が近寄らないであろう人たちにいったいどんな奇跡が起こるというのでしょうか?

かのじょは、同僚の職員たちにはこれを話しませんでした。そして、あなたもこの話はきっと信じてはくれないでしょう。

今年の春の日のことでした。


1.お熱、お熱さんとの日々

かのじょは帰宅すると、わたしにその日の障害者たちの様子をよく話してくれました。

いいえ、わたしが「今日はどうだったの?」と聞くものだから、「そうね、あのね・・」と話してくれたのです。

ただし、かれらの名前をわたしにはぜったい教えませんでした。

「お熱、お熱」さんはねと、かのじょが話し始めました。

彼は重度の自閉症者で言葉をほとんど話せません。

職員の言った言葉をオウム返しするぐらいで、自分の意思を伝えることがとても難しい。(なぜ、自閉症者はオウム返しするんだろう?)

その彼は、ときどき、いきなり大声で叫び出すことがあります。

突然叫び出すものだから、他の障害者たちは泣き出したりあるいは怒りだしたりして、もう部屋中が大騒ぎになる。

そうすると、かのじょは彼のそばにいって、どうしたの?と言いながら背中をさすってやるのだそうです。

そうすると、お熱、お熱さんはだんだんとトーン・ダウンして行く。

どうしたんのかな?何かが聞こえて来て苛立ったの?

ときどき「お熱ちゅ、お熱ちゅ」と訴える彼に、職員たちは熱があるの?と聞いてしまっていました。

彼の会話?は、ほとんどがオウム返しだから、熱があるの?と職員に聞かれたら「熱あるの」と彼は答えてしまう。

だから、今まで職員たちは、熱があるのなら、じゃあ冷やそうとアイスノンを手ぬぐいで包んで頭に巻き付けてきた。

職員たちはそう聞いて、そうだと言うのならと、”熱がある”と信じて来た。

いいえ、信じたふりだけをした。

職員たちは彼の額に自分の手を置いてみたり、体温計で測ったりしなかったんですから、原因はどうでも良かったのです。

熱は無いはずだからと、いちおう聞いたふりして”儀式”を執り行い、彼の訴える方向を逸らしたかったのでしょう。

かのじょは、アイスノンを頭に巻き付けられても、そのたびにすぐにそのアイスノンを頭から脱ぐい落とす彼の様子を見ていました。

あれれ?とかのじょはずーっとこのやり取りを不審に思っていたのだそうです。


あるとき、彼が「お熱ちゅ、お熱ちゅ」とかのじょに訴えました。ようやく確認するチャンスがかのじょに来たのです。

毎回、彼と職員たちのこのやりとりを怪しんでいたかのじょは、「お熱ちゅ、お熱ちゅ」と訴えてきた彼に「そう。辛いわね」と返した。

続けて、「あたま痛いの?」と聞いてみた。

そしたら、彼は、「あたま痛いの」と答えた。

「そう、あたま痛いのね、じゃあ、すこし頭にわたしの手を置いてみるわね」と言って、自分の手を彼の額に置いた。。

その日から、彼は「お熱ちゅ、お熱ちゅ」ともっぱらかのじょに訴えるようになったのだそうです。

というか、彼は強引にかのじょの手をグイッと握り、それを自分の頭に置かせるようになった。

誰だってあたまが辛いときってあって、それをうまく表現するのは結構難しいものです。

あなたもせいぜい、痛いとか、重いとか、ズキズキする、ガンガンするぐらいしかないと思います。

頭痛の因果関係、思い当たるフシもはっきりしません。

頭痛ってけっこうやっかいな事象でしょう。

さらに、彼にとって不運なことに、言葉で表現することが閉ざされている。

でも、彼だって人並に頭がモヤモヤする、重い、痛いって起こるんです。にんげんだもの。

これはバッファリン投与が禁じられている障害者施設では(医者の許可が都度必要です)、すごくやっかいな問題です。

きっと、むかしむかしのある日、お母さんが小さかった彼の額に手を当てて「あら~、熱があるわ」と言ったでしょう。

母から習ったこの「お熱ちゅ」しか、大きくなった彼には手持ちが無いようです。

もちろん、彼はみずから好んで自閉症なったわけではないのです。

自己を表現できません。他者に想いも伝えられません。

施設という、この世界で唯一許された居場所に居ても、ああ、、誰も彼に触れることは無いのです。

そりゃ、ときどきワーッと叫びたくもなるでしょう。

閉所恐怖症のわたしは、狭く暗い穴に閉じ込められたようで、今自分がそんな状態になったら発狂するかもしれない。

ええ、彼の苦しみって、言葉を話している”健常者”にはなかなか想像できないものでしょう。


彼は、かのじょの手をグイッと握りそれを自分の頭に置かせるようになった。

かのじょは、はいはいと逆らいもせずに手を置かせたままにする。

そんな時、母の手のように、不思議な”手当”ということが起こる。

人に手当されたらすっとするというアレです。あなたにも覚えがあると思います。

そうなんです。

熱があったんではなくて、頭が辛いのでなんとかしてくれ、という彼のメッセージだったのです。

バッファリン飲むとかいう行為に勝手に移れないひとが、そもそも、そういうお薬をくれと表現ができない彼が、必至に頼んでいたのでした。

「可哀そうに、今まで誰も彼の苦しみを聴いてあげなかったの。

冷え冷えのアイスノンって職員たちは知らないのかしらね。あれって10秒もしないうちに”痛く”なるわ。

でもね、訴える彼に、はいはいと嫌がることをせっせとする職員たちを想像すると、なんだか滑稽で笑えてくるわ。

あまりに悲しすぎて、ひどく可笑しいでしょ?」。

かのじょは、決めつけるということが出来ない分、よく観察しています。

自閉症者に対して、オウム返しできないような質問をわざとします。

そしたら、どんな返事をしてくれるんだろうと思ってしまう。きらりかのじょの瞳が輝くのです。

意外な反応をかれらは見せてくれることがあって、かのじょは、障害者たちが見せる反応、その変化を驚きと喜びで迎えます。

ちょっとした変化でいいのです。

その変化というものが無性に”嬉しい”のだそうです。


施設では、”世話をする”という役割なので、ほとんどの職員たちは世話をすること以外に興味を持ちません。

お世話するという行為にばかり意識を向けているから、お世話が第1となり、障害者の声を聴いていません。

あなたはそんな職員たちを意外に思うかもしれませんが、それはわたしたち自身に広く見られる姿です。

サラリーマンも、事務なら事務、生産なら生産、研究なら研究をしようとします。

事務のための事務、生産のための生産、研究のための研究となっています。

ADHD気質満載のかんじょは、一時期営業になったのですが、高額でも商品はばんばん売れました。

それは、来たお客さんの額に手を置いたわけではなくて、ふんふんとただ聞く営業だったからです。

かのじょは、他者ぜんたいを見ます。決して自分自身を機能として演じられない。

高額商品ほど、お客さんは不安と騙されやしないかという疑念が生じますが、かのじょは商品の説明もしないのです。

お客さんがなにを期待し、何を不安に思っているかを感じようとする。それは本能的です。

もしあなたがこのお客さんだと想像してみると分かると思いますが、きっとあなたはかのじょを信用してしまうでしょう。だって売ろうとしないで、ひたすら受け止めてくれるんだから。

もちろん、商品を買いたくてあなたはその店に行ったのですから、次にかのじょの扱う商品を信用するわけです。

(不思議だわ、なぜか売れちゃうのとかのじょはそのカラクリに気が付きませんし、また、営業はあまり好きではないようです。)

わたしたちは簡単に魔法をかけられてしまうのでしょうか?

夫なら夫、父なら父、上司なら上司、男なら男という役割をしようとしてしまう。

魔法をかけられたら、お客さんや妻や子の声を聴くということがもうできない。

施設の職員がひどいというよりも、かのじょが変わっているのです。

でも、魔法にかからないのだけれど、ADHD系の障害者でもあるかのじょは、お世話がチョー苦手なのです。(自分に障害があることを納得してもらって職員採用されてますが)。

それがかえって鋭い観察眼をかのじょに与えていると思います。


2.彼はこころが読めるの?

かのじょが用事があって同僚を探しに中庭に出た時のことだったそうです。

居るかなぁ?と花壇のあたりを探していました。

かのじょのうしろには、お熱、お熱さんがいました。たまたま、ついて来たんでしょうか。

居るかなぁ?とかのじょが同僚を探していたら、後ろでお熱、お熱さんが「ほら、居たよぉ」と言った。

ええーっ!!

かのじょは発話はしていなかったのです。自分の心の中でだけ居るかなぁ?と言っていただけだった。

お熱さんが「ほら、居たよぉ」とまた、言った。

ええーっ!

それはまあ、偶然だったのかもしれないし、偶然以外の説明が付かない。

なので、かのじょは、それはすっと日常の一コマとして気にせずにその日は通り過ぎました。

そして、何日かたって、彼の世話をしながら、かのじょは「とりあえず、こうして(処置して)おこうかな」と心の中で言ったときでした。

そしたら、お熱、お熱さんが「とりあえず、とりあえず」と口にした。

おお、、、今回もかのじょは口にしていなかった。

にも関わらず、彼はまるでかのじょの心の中の言葉を受けたかのように口に出したのです。

「とりあえず、とりあえず」とまた彼が言った。

おお・・・

その時、同僚もそばにいて、確かに彼が「とりあえず、とりあえず」と口にしたことは聞いていました。

でも、きっと信じてもらえないだろうからと自分の驚きは同僚には伏せました。

同じようなことが何度か起こって行ったのです。

おお、、こりゃ、ほんとうに!!彼がわたしのこころの何かを見ているんだわ。

だとしたら、彼が、ときどき、大声で叫び出すのには理由があったのね。

彼は、周囲の障害者の誰かの内なる声を聞いたんだわ。

聞えて、その怒りや不安が彼を怒らせた。

いいえ、彼はそのあまりに黒いエネルギーを突然共有させられて発狂せんばかりに、「これを解いてくれー!」って言ったのかな。

家に帰って来て、そんなことあるのかしら?とかのじょに聞かれたわたしはその日、ネットで調べてみました。

自閉症者、自閉症者。。


3.起こっている

調べてみたらいろんな研究がされていて、中にこんなのがあった。

その実験の様子が実際にビデオでとられていて、わたし見ました。

研究者が自閉症者にペンで数字を指すように促して行くのです。

そのたびに、子どもの被験者はペン先で、目の前に置かれたボードに書かれた1から9、そして0のどれかを指して行く。

研究者は、たとえば、「33478931÷15795=2119.59044」と紙に書かれているのを被験者に見えないようにして、見ていました。

研究者は、紙を見ながら、左から順に数字を認めて行く。

先ず「3」と認めたら、被験者にペンで1から9、そして0のどれかを指すように促した。

次に、研究者は、紙を見ながら、次のまた「3」を認め、被験者にペンで1から9、そして0のどれかを指すように促す。

こうして「4」、「7」、「8」・・・・と順に進めて行く。

被験者の少年は、「3」、「3」、「4」、「7」、「8」、・・・・と最後の「4」まで正確に順に差し示して行きました。

おお、、、。

少年は研究者が見ている紙は見えないし、研究者はいっさい言葉を少年に言っていないのです。

なのに、少年は次々に研究者が念じた数字を指し示していったのです。

「33478931÷15795=2119.59044」。

この左部が仮に見えてても、人は右の正解は言えません。暗算、むずかしいです。

ESP研究と言われる分野に該当するものですが、これってかなり偶然ではないのです。

あきらかに少年は、研究者のこころ?の中の数字が見えていると考えざるを得ない。

また、少年がこうして研究機関につながったのは、親がその子の”特異性”に気が付いていたからだと思います。(親はリアルな現象だと確信した)

かのじょは、「あなた(かのじょ)にばかり障害者たちはなつくのね」と同僚たちからよく言われてきました。

それは、障害者たちがかのじょを警戒していないからでしょう。

人のお世話が苦手なかのじょは彼らを采配したり、操作しませんから。

そういうかのじょに、かれらは警戒なしに自分の素を晒してしまう。

かのじょもよくかれらを偏見無しに観察している。

だから、双方の間に特殊な空間が生じ、かのじょはかれらのほんとに気づけた。

あるいは、お熱、お熱さんがかのじょのこころの中の言葉を見たのだとすれば、

かのじょの方からも、それを受け取りやすい何かが差し出されていたのかもしれません。


「人のこころを読む」というフレーズは誤解を与えてしまいます。

お熱、お熱さんは読んだのではなく、かのじょのこころの中の言葉を見ただけかもしれないのです。

あるいは、かのじょのこころの中をというより、かれの頭の中にそれが来たのかもしれない。

何が起こっているのでしょう?

戦争末期、息子が南方で戦死する直前ににほんにいる母が同時刻にそれを知ったというような実話が残っています。

もし、瞬時に情報が伝播するのなら、距離が問題ではない時空で母はそれを見たことになります。

現在の物理学者たちが唱える11次元のヒモからなる宇宙論のように、

こことあそこ、今と過去とかいう区別が無い多次元でこの宇宙は構成されていて、ヒモとヒモとがなにかのきっかけで交差する。

過去が未来に触れるというような、とてもダイナミックに変転する世界にわたしたちはいるのかもしれません。

それをわたしたちは「奇跡」と呼んで来たのかもしれない。

「奇跡」とは、海が割れ大地が現れたような物理世界のことではなく、

心理面が物理世界とクロス(交差)する事象を言うのかもしれません。



4.ユングのこと

ユングは、シンクロニシティの研究をして、これを因果律によらない「意味のある偶然の一致」と定義しました。

「共時性」、「同時性」と訳されるのですが、もうめちゃめちゃな定義なわけです。

対立概念である必然と偶然を共存させている。意味のある偶然の一致なんて、、ねぇ。。ひどい。

ユングは、患者の治療過程で、数多くの「偶然」という言葉では簡単に片づけられない非現実的な意味深い現象を体験したのでした。

その原理を説明するために、仕方なく、「シンクロニシティ」という言葉をつくったのです。そうせざるを得なかったということです。

彼は、Aという原因でBという結果が起こるという因果律を否定せざるをえなかったのでした。

河合隼雄さんのようにカウンセリングに携わる人たちも、「意味のある偶然の一致」をたびたび体験したことを報告して来ました。

かのじょ自身にも、このシンクロニシティが頻繁に起こって来た。

あのひとどうしてるかなと頭に浮かんだ同級生。そんなに親しくは無かった彼のことがなぜか、頭に浮かんだ。

そのまま電車を降り、ホームを歩いて行くとその人にばったり会った。

偶然と片付けていいのだけれど、単なる偶然とは思えないようなことが頻発してきた生でした。

わたしたちにもそういう経験は多少ともあるでしょうが、ふつうは気に留めないのです。

その出来事をすっと通り過ぎて忘れてしまう。

説明できないことは、イコール、無かったことになっちゃう。

でも、あまりに頻発する人たちは、偶然では片づけられなくなるのです。

いったい、この世はどうなってるんだ?

例えば、聞かれたらあなたは「ひらめいたのです」というでしょうが、ほんとは結果を先に一瞬”見た”のかもしれない。

そうして奇跡は起こった?


5.定めという配置

ユングにはコンステレーション(constellation)という言葉があります(「布置」あるいは「配置」と訳されます)。

「コン」(con-)は「ともに」(with)にあたり、ステレーションの「ステラ」は「星」を意味し、「星座」という意味をもっています。

これは一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、

ある時、全体的な意味を含んだものに見えてくることを言います。

例えば、白鳥座や小熊座のように、何気ない星の配置が、白鳥や小熊というイメージを思って見たときに、全体が特別の意味を持って見えてくることにちなんで言われてます。

人のこころを読むのも、シンクロニシティもなにかそれを大きく支えている構造を予感させます。

わたしたちは、ふだん、それと気づかずにそれぞれがある配置に置かれているのかもしれないのです。

心理学者の河合隼雄さんは、京都大学の最終講義で、ユングがよく使ってきたこの「コンステレーション」という言葉を手がかりに、

こころのこと、心理療法のこと、生きることを語っていて、ユングの流れをくむC.A.マイヤーの論文に触れました(最終講義はYouTubeで見れます)。

「・・・われわれが心理療法をするということは、いろんな仕事をしているんですね。

時には忠告を与えるときもあるし、時には来られた人の気持ちをちゃんとこちらがそれを反射してあげる。

・・・けれども、マイヤーは特別なことをやっている。

マイヤーは何をしているかというと、

「コンステレートしている」という言葉がそこで出てくるんですね。

・・・クライエントが来られたら、その内容に対して何か答えを言ってあげるとか、解釈してあげるんじゃなくて、

その人のセルフリアライゼーション、自己実現の過程をコンステレートするんだ、と書いてあるんですね。

そして、その人が自己実現の過程をコンステレートして自己実現の道を歩む限りにおいて、

その人にともについていくのだ、と書いてあるわけです。

これは私にとって非常に衝撃だったのです。」

「・・・人間の心というものは、

このコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているということだと私は思います。」

かなり河合さん、ヤバイことを言ってました。

カウンセラーはお医者さんとは違うんですね。治す人じゃないと。

治るには、クライアントが自分の本来の星座の配置に自身が気が付く時だって。

自分の定めを白鳥や小熊というイメージを思って見たときだって。

クライアントがそこに行き着けるよう、カウンセラーはその自己実現の力を信じて付いて行くのが仕事だって。。


6.奇跡は起こるのか?

河合さん、言ってました。

「人間が自分のことを考えたり、他人のことを考えたりするときに、因果的に考え過ぎると、間違いを起こすのではないかと思うんです。」

「自分の人生をみるときに、魂があると思って人生をみてみる。それはどういうことかというと、人間を心と体に分割してしまわない。」

分かったようで分からない話なんです。

でも、コンステレーションという配置があなたのじんせいを取り巻いているんだとしたら、それはもう言葉ではあらわせません。

物語るしかなくて、物語の中で自分の定めに気が付くんだと言ってます。

言葉をつかって定義するというような分割はとても危険だとも河合さんはいっていた。

マイヤーが「その人にともについていくのだ」という時、きっとお熱、お熱さんが「とりあえず、とりあえず」と口にすることも起こったでしょう。

そう、かのじょは相手を障害者扱いはしません。

そのひとがその人そのものを現わすことを愛でます。かのじょは自由ということをとても大事にしています。

かのじょは知らずにかれらのカウンセラーになっていて、埋もれているかれらの物語を引き出す触媒なのかもしれません。

かのじょは始終、テレビのドラマを見ているのも、かのじょが物語を生み出す人ではなく、物語を聞きたがる人だからでしょう。

ほんとにどんなドラマも見ます。

奇跡とは、わたしたちの勘違いや決めつけが破綻する時でしょう。

ブレークして、埋め込まれていた物語が始動しようとする時。

そうだと思い込んでいたのでは超えて行けないこの世界の秘密が開示される時でしょう。

奇跡はあるのか?

軌跡はありふれて在るでしょう。

その来し方こそが、奇跡だったのだと思います。

そこまで見たのがアインシュタインだったのだとしたら、ほんとに彼は人類の宝であり、

また、そのようなお宝はあなたの身の回りにもごろごろありふれて居るのかもしれません。


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