見出し画像

◆同じ夕焼けを見ていた ~例えばこころはこんなに違っていても~

ねぇ、昨日の夕方の空、見た?
雲がかかって、血みたいに真っ赤でさ。
わたし、また何か良くないことが起きるんじゃないかって、不安になっちゃったよ。

同僚が他の同僚とそう話しているのを聞いて、わたしは心中で鮮やかな驚きを噛み殺した。
その空は、ちょうど終業後に迎えに来た夫の車に乗って、夕ご飯の支度が面倒だからと一緒にラーメンをすすり、店を出ようとしたところで、わたしも見た。
わたしと夫は一日中降り続いていた雨が漸く上がって、沈みかけながらも眩しい太陽の光をめいっぱい含んだ雲が作り出す紅い陰影を見ながら、ほとんど同時にこう叫んだのだ。

うわー!! キレーイ!!

明日晴れるかな、と言ったわたしに向かい、夫は「そうだといいね」と笑った。
互いにおそらくわくわくしながら帰路につき、悪い予感の欠片もなかったのだ。

アサさんも見た?と、尋ねられたので、何だか少し気まずくなったわたしは、おずおずと「見たけど…キレーイしか思わなかった」と正直に伝えた。
彼女はフン、と鼻で笑ったあと、そういえばアサちゃんは災害の備えもしてないんだもんねえ、と言った。

災害の備えは、一応している。
救いたい命が身近にある以上、これはしなければならんと、やっと重い腰を上げて、去年から。
でも、わたしと夫が昨日の夕焼けに抱いた感想は、そんなこととはおおよそ無関係な心のどこかから、湧き出たものだ。
むしろわたしに言わせれば、綺麗な夕焼け空を見るだけで何らかの超自然的メッセージを、しかもごくごく悪い方に、勝手に受け取ってしまう心情の方が理解しかねたのである。

この話を夫にしたところ、開口一番「マジで!?」という驚きの声が上がった。
長いこと一次産業の自営業だった夫には、そういう思考回路があること自体が衝撃だったらしい。しばらくの間「マジかぁ…マジかぁ…」を繰り返したあと、ショックだ、とポツリと言った。
まるで、おれ能天気じゃない?と夫が続ける。
あなたはいつだって能天気だし、わたしもそれにすっかり毒されちゃったんだよねえ、と答えると、夫は不満げに「えー」と口を尖らせるのだった。

しかし、改めて全く同じ景色を見ていた他の誰かが胸に抱いた感想が、ここまで自分たちと違うことを目の当たりにした衝撃は、わたしもそこそこ大きかった。
当たり前のことではあるのだが、日頃あまり深く考えずに暮らしていると、当たり前のことにもなかなか考えが至らなくなる。
なるほどなぁ、と、改めてわたしは今回の話を噛み締めてみた。

よく、同じ赤でもみんなが同じ色を赤と呼んでいるとは限らない、などと言う。
その昔、絵描きの間で空欄にいろんな色の名前を書いて、そこにその人自身が これだ!と思う色を乗せて公開する、という遊びが流行った時も「赤」の空欄に自分と同じ赤を乗せた人は一人たりとも居なかった。
おそらく、他の人たちも厳密にHTMLカラーコードの果てまで同じ人がいた!という例は限りなく少ないだろう。

では、かと言って絵描きの界隈で「○○さんはあんなに彩度の高い赤を拾ってるんだわーバカみたい」とか、「○○氏はわざとグレイッシュな色ばかり拾ってきてイタいわね」みたいな言説があったかというと、なかった。
まぁ当たり前だろう。
絵描きなら大概みんな、己がこだわりを持っている色使いと同様に、他の絵描きにもこだわりの色使いがあることを知っているからだ。

しかしこれが一般社会で、殊に主義や思想の話となると、些細な違いが排除と分断の引き金となってしまうことが往々にしてある。
絵描きが己のこだわりの色に重ねて相手のこだわりの色を尊重するように、一般社会でも、己の主義主張を大切にする心と同様に、相手の主義主張も尊重するのは不可能なのだろうか?

まぁ、たかが夕焼け空や色の好みとは違って、何らかの実害が出てしまうこともあるからなあ。

ただ、どんな主義主張や好みでも、最初から見下したりバカにしたりするのだけは違うような気がする。
いや、もちろん見下したりバカにしたりする権利も自由もあるんだけれども。

とりあえずわたしは、キレイな夕焼けはキレイだな、って思うだけで済む能天気で良かったなあ、と思う。
能天気かも知れないけれど、わたしたち夫婦はどうやらその方が楽しくて、その方が合っているようだ。
災害の備えの準備をしながらでも、キレイな空をキレイと思えるこころで居たい。

さて、あなたはタイトルの夕焼けにどんな感想を抱きましたか?

それでは、このたびはこの辺で!

いいなと思ったら応援しよう!