碧い港のファンタジア《8》まどろむホームの夢、春のお茶会(連作短編)
《8》まどろむホームの夢、春のお茶会
風が甘い。
潮風に花と土の香りが溶け込んでいる。それはそれはほのかな香りだけれど、船で旅をする者なら決して見逃すことはない。久しぶりの「陸」の香りだからだ。
私は陸ならではの「春」の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。それから軋みを立てる桟橋を渡り、地面に足を下ろした。しっかりと頼もしい、同時に心和む柔らかさも備えた土の感触が足裏に伝わった。
船乗りとして故郷を発った日から長い歳月が過ぎた。だが、初めての港に降り立って土を踏みしめるときは、今でも子どものように胸が高鳴る。
人間のように、港にもさまざな個性がある。例えば海は灰色で波も高く、石造りの尖塔がいかめしい、そんな港では、多くの人に踏みしめられて地面も固く整っている。鮮やかな色をした鳥たちが飛び交う、陽気な港の地面は緑の匂いがする。あるいは、波も人も昼下がりの陽ざしに微睡んでいるような、おっとりとした凪の港。こうした港の地面は旅人の足を包み込むように柔らかく受け止めてくれる。
ときには、「ようこそ、旅のお方」とばかりに、訪れる船に微笑みかけてくるような人懐こい港と出会うこともある。こうした港の土は、しっかりと足を受け止めつつも、どこか弾力がある。安らぎと同時に、どこまでも歩いて行けそうなときめきを与えてくれる。
いま、桟橋を降りて踏みしめた土がまさにそうだ。この港は「当たり」らしい。どうやら仲良くなれそうだ。
広場ではさっそく幸運の贈り物があった。今日は、この港の春祭りだったのだ。華やかに着飾った人々が行き交い、揃いの衣装をまとった少女たちが皆に薔薇のひと枝を授けている。あちこちでクラッカーが鳴らされ、柔らかな春風に花びらが舞う。やはり予感は当たったようだ。
潮風と楽隊の響きに身を任せながら歩き続けるうちに、いつしか港の裏手までまわり込んでしまったようだ。眼前には草花の生い茂る野原が広がっていた。広場の喧騒もここまでは届かず、穏やかな空気が流れている。
一面の緑のなかに、雛菊の白やコクリコの赤が点々と揺れている。その中に、ちかり、と光るものがあった。近寄って靴の先で雑草を押し分けてみると、金属のレールと枕木が現れた。線路だ。ただし廃線になって久しいらしく、レールはあちこち錆びつき、枕木は朽ち果てて地面から浮いている。
この線路、いったいどこまで続いているのだろうか。さいわい出航まで時間はたっぷりとある。よし、たどってみることにしよう。
生い茂る草に見え隠れしながら線路は伸びてゆく。埠頭に向かっているようなので、おそらく貨物の引き込み線だろう。茂みに足を取られながらも線路をたどってゆくと、灰色の小さな舞台のようなものが見えてきた。線路はそこに向かっている。
たどり着くと、予想通りそこは古いホームだった。かつての貨物駅の名残りだろう。船荷は埠頭で荷揚げされたあと、貨物列車に載せられて各地に運ばれていく。このホームもそうした起点のひとつだったはずだが、何らかの理由で廃線になったのだろう。
石段は崩れかけ、錆びついた支柱には淡い緑の蔓草が絡みついてアールヌーヴォーの曲線を描いている。 もう列車のやってくることのなくなった線路を草が覆いつくしたあと、誰からも忘れ去られたホームだけがぽつりと、夢見るように野原に浮かんでいる。
意外なことにホームには先客がいた。少年がひとり、少女がふたり。朽ちかけたホームの上には華奢なテーブルと椅子が出されており、小さなお茶会が開かれているようだ。テーブルには溢れるほどに白い薔薇が飾られ、皿には焼き菓子が盛られている。どこか舞台じみたホームの上で、華奢な体つきの彼らが動いているさまは、人形劇の一幕のようにも見える。
トレイをささげてお茶の給仕をしているのは少年だ。線が細く、あまりに肌が白いので、陽射しのもとでは痛ましく見えるほどである。糊のきいたシャツに黒いカフェエプロンがかいがいしい。お客さん役は二人の少女。年かさの少女は純白の薔薇をあしらったドレスをまとっている。彼女の瞳は、まるで晴れた日の海のような明るいブルーグリーンで、その瞳をきらめかせて少年の姿を見守っている。もうひとりの少女はやや幼く、表情にもあどけなさが残る。淡い珊瑚色のワンピースがよく似合っており、波打つ金髪が汐風になびくたび、耳もとには大粒の真珠が揺れる。
めいめいがせいいっぱいのおめかしをして、ままごとのように楽しげなようすが伝わってくる。と、給仕役の少年がふいにこちらを振り向いた。碧瑠璃の瞳に、心まで吸い込まれそうになる。その瞳が微笑んでいる。
「ようこそ、お待ちしていました。お席は用意してあります。さあ、どうぞこちらへ」
ホームの上から私に向けて、少年の掌は柔らかく差しのべられた。
なぜ、私のことを知っているのだろうか。とまどう一方で、私は彼の言葉をごく自然に受け入れてもいた。そうだ。こんな日が来ることを私は心のどこかで知っていた、そんな気がした。初めて出逢った、しかしかけがえのない友人たち。今日こそは、誰の胸にもある「いつか」の約束の日。
気付けば私もまっすぐに手をさし出していた。折れそうなほど繊細な彼の手に導かれて、私は崩れかけた石段を上がり、お茶のテーブルに向かった。
笑顔に囲まれながら、用意された席に着くと、さっそく少年が熱い紅茶を注いでくれた。ティーカップから香り立つのは薔薇の紅茶。一口含むと、体じゅうが華やかな花の薫りに包まれる。
「美味しい」
思わず声を漏らすと、
「でしょう。アズールのお茶は特別ですもの」
白薔薇の少女が誇らしげに応える。アズール、天の青。碧瑠璃の瞳を持つ少年の名として、それ以上ふさわしいものはないと思えた。友人の言葉に、彼ははにかみながらも笑顔を見せた。
「こちらもいかが。私のお手製なのよ」
珊瑚色のワンピースの少女が、一同の皿に菓子を取り分けてくれた。真珠を模したらしく、銀のアラザンが一粒あしらわれた貝殻のかたちのマドレーヌだ。礼を言い、口に運ぶとバターの良い香りとともにほろりとほどけた。上品な甘さのなかにほのかな塩気が効いている。
ひとつ食べ終え、白薔薇の少女がほっとため息をついた。
「ああ、美味しい。私、ペルラのお菓子が大好きよ。貝のかたちも素敵」
「有難う。フローラのお褒めにあずかるなんて、たいへん名誉なことですわ」
ペルラと呼ばれた少女はつんとおすましして小さなあごを上げた。そのはずみに耳もとの真珠が揺れる。お呼ばれの席で背伸びしてふるまっているが、褒められたのがよほど嬉しいのだろう。得意げな表情をおさえきれないのが微笑ましい。
「フローラがそう言うなら、今度はヒトデの形のゼリーも持ってきてあげる。ヒトデはね、満月の夜にはほんとうのお星さまみたいに光るの。キラキラ綺麗なんだから。海の底にも月の光は届くのよ」
友人たちの語らいに少年は耳を傾けている。その顔は幸福で輝いている。
「さあ、アズールも」
促されて少年が席に着くと、彼のために用意されたグラスに透明な飲み物が注がれた。グラスの中を細かい泡が昇り、きらきらと弾ける。
「もう一度乾杯しましょう」
それぞれがティーカップやグラスを掲げ、お茶会が再開された。
テーブルのおしゃべりは続く。ひとつ、またひとつと焼き菓子に手が伸び、熱い紅茶が注がれる。野原を吹きわたってきた潮風がテーブルの白薔薇を揺らし、花びらが純白のしぶきのように舞う。女神の祝福だ。
彼らのさざめきを載せて、かつてのホームは永遠にまどろみ続ける。夢見るのは、海から来た貨物列車たちの夢。
《完》
「碧い港のファンタジア」 全8話(連作短編)
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