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碧い港のファンタジア(連作短編 第三話)

《3》晴れの日は、かもめと古いトランクと


桟橋の先端に古いトランクが置き忘れられていた。ぽつんとひとつ、海風に吹かれて。

***

アンテは港が好きだ。外洋に向かって開けたこの場所。とくに良く晴れた日には、海と空に包まれて世界が青に溶け込み、両腕を開いて深呼吸すると、胸の中が青い空気でいっぱいになる。

アンテがトランクを見つけたのも、そんな気持ちのいい晴天の正午まひるだった。海に突き出した桟橋の先に革張りのトランクが置き忘れられていたのだ。

見たところかなりの年代もののようだが、丁寧に手入れをされてきたのか、革は磨き込まれてまろやかな艶を帯びているし、真鍮の鋲は深い輝きを放っていた。

旅慣れた人の持ち物だったのだろうか。さまざまな国の名が記されたステッカーが貼られている。いくつかの国については本で読んだことがある。アンテは声に出してそれらの国の名を読み上げていった。

――生い茂る樹々の間を、色鮮やかな鳥が飛び交う常夏の国。ステッカーには、白と黒の毛皮を持つ猿が、おどけた様子で果物を掲げてみせる姿が描かれている。
――一年中凍てつく氷の国。ステッカーに描かれているのは銀色のアザラシだ。この国の酒は氷のように透明だが、その冷たそうな見た目に油断して一気に飲み干すと火のように熱く喉を焼くと聞いたことがある。
――この国の名は聞いたことがない。ステッカーの柄は、紫の空に銀色の星が輝いているものだ。夕べになると、アンテが見たこともないほど大きな一番星がきらめく砂漠の国だろうか。それとも、香料や絹を運ぶ小舟がゆるやかに河を行き交うような遠い彼方の国だろうか。

アンテの夢想を、のどやかな汽笛の音が破った。二回目の汽笛、少し間をおいて三回目。最後の汽笛は長く尾を引いて響き、しばし余韻が港を包んだ。三たび鳴らされる汽笛は出航の合図だ。大きな船が動き出し、ゆっくりと岸を離れていく。もやい綱に止まっていた海鳥が一斉に飛び立ち、波の上に輪を描く。
出航したのは貨物船だろうか。岸壁のように高くそそり立った船腹に、斜めに陽が差している。船はゆったりと舵を切り、外洋に向った。あの船もまた、アンテが見たことのない遠い国に向かうのだろう。

白い水脈を引いて船が遠ざかるのを見送り、アンテは縁石に腰を下ろした。港はまた元の静けさを取り戻した。

トランクの持ち主はまだ現れない。
トランクを見つけた時には、トランクの真下に小さな影がくっきりと落ちて正午を示していたが、その日時計も少し東に伸びている。明るく澄みきっていた陽差しも、今は少し柔らかさを増したようだ。

その時だった。ぱたり、と音がしてトランクが開いた。暖かい海風に吹かれ、まるで時が満ちたとでもいうようにひとりでに開いたのだ。トランクの中からは無数の手紙が溢れ出した。あるものは宛名書きのインクの跡も瑞々しく、あるものは流麗な筆跡がセピア色に変わっていた。
色鮮やかな切手が貼られた手紙、消印がかすれかけている手紙。真紅や深緑の封蝋が施されている手紙もある。まるで羽根枕の羽毛のように、封書ばかりがぎっしりとトランクに詰め込まれていた。

そのとき一陣の海風が吹き、溢れ出た手紙たちが紙吹雪のように舞い上がった。青い空に白い封筒がまぶしく光る。強い風にあおられて一通の封が開いた。と、それを待っていたかのように残りの手紙もぱたぱたと封が開いていく。

全ての封が開ききったかと思うと、突然、そのうちの一通がかもめの姿に変わり、白い翼をばさりと羽ばたかせた。アンテが声を上げる間もなく、手紙たちは次々とかもめに生まれ変わっていく。
鳴き交わしながら飛ぶかもめの群に囲まれ、アンテは自分も真っ白な雲に包まれて空を飛んでいるような錯覚を覚えた。

きらめく波を眼下に、かもめたちは悠々と翔んでいく。
彼らのつばさの先端にはひとしずく、インクを落としたように藍色が滲んでいる。手紙の姿だった時の名残のようだ。

かもめたちが飛び去ったトランクの底に何か残っているのをアンテは見つけた。手に取ってみると、ぱりっと糊のきいた大判のハンカチが二枚。一枚は赤と白の四角の組み合わせ。もう一枚は、青、白、赤の四角が入れ子状になっている。ーI wish you a pleasant voyage.ー信号旗のメッセージだ。

「旅の無事を祈る」
遠ざかるかもめたちに向かって、アンテは大きくハンカチを振った。

《完》


「碧い港のファンタジア」連作短編 全8話

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門 #連作短編 #海

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