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碧い港のファンタジア(連作短編 第二話)

《2》アンテの部屋


Ⅰ.パズルの街、ハンプティ・ダンプティの赤い月

高台にあるアンテの部屋の窓からは町が遠くまで見渡せた。くすんだ灰茶色から赤茶、キャラメルのような金茶色や焦げ茶色と、濃淡さまざまの屋根が並んでいるさまはまるで茶色いジグソーパズルのようだ。パズルのところどころには煉瓦造りの塔や白い教会が突き出ていて、陽差しを眩しく反射している。その奥に、青いピースを嵌め込んだように光っているのが海だ。窓から身を乗り出すと、朝陽に洗われた新鮮な汐風がアンテの頬を撫でいく。

夜になると窓の正面に月が昇る。季節や時刻によって月はその姿をさまざまに変える。家々の屋根すれすれに大きく赤い月が浮かぶ晩には、街並みは影絵となり、人形芝居の舞台装置のように作り物じみて見える。月は窓いっぱいに広がり、ハンプティ・ダンプティのような赤ら顔でアンテの部屋を覗き込む。その同じ月も、夜半になると別人のように澄ましかえり、天高く昇って蒼白く冴えわたる。まるで夜天に張りつけられた銀貨のように小さく硬く輝いている。

夜が更けて風の向きが変わったようだ。もう潮の香りはしない。そのかわり、濃密な花の香りが夜の闇に立ち込めている。

Ⅱ.親方の傘

白い漆喰と茶色い家具。あとは身の回りのものが少し。色味の少ないアンテの部屋だが、一箇所だけ鮮やかな色彩が目を惹く。その正体は一本の傘。

緻密に組まれた傘骨に、飴色の艶を帯びたヒッコリーの持ち手。傘布は鮮やかな赤だ。傘を広げると、まるで帆船が出港するときのように、傘布は誇らしげに張りつめる。造りは重厚なのに、実際に傘をさしてみると驚くほど軽い。持ち手がしっくりと掌に収まって、傘全体が浮き上がるように空気をはらむのだ。ずっしりと肌理の詰まった木材や厚手の布地を使っても、仕立てさえ良ければ傘は軽く感じることをアンテは知った。

アンテの質素な暮しには不釣り合いなほどの上等品だが、それはこの傘が貰い物だからである。まだ幼かったアンテが傘工房に弟子入りした時に、親方から祝いの品として贈られたのだ。

「いい傘ってのはとにかく軽いものなんだ。広げたとたんにふわりと体が持ち上がるぐらいでなきゃ傘とは言えねえ」
それが親方の口癖だ。

おとな用の傘だったので、その時のアンテの痩せた腕にはずしりと持ち重りがしたが、成長した今では、その重みこそが歩行時にバランスをとってくれることに気づいた。
傘職人としてまだまだ駆け出しの身のアンテだが、そろそろ一人で傘骨を組むことも許されつつある。

「どんな土砂降りだって、傘さえ広げれば心と体がふわりと軽くなる。傘は、いつでも行きたい所に連れて行ってくれる頼もしい相棒なんだ」
親方はそうも言っていた。いつかはこんな傘を作れるようになりたいと、手に取るたびアンテの胸は躍る。

Ⅲ.仔猫とレコード

音楽にはあまり詳しくないアンテだが、部屋には古いレコードプレーヤーがある。レコードは一枚だけ。どちらも前の住人が残していったものだ。レコードジャケットはないし、タイトル部分も色あせて読み取れないが、短めのピアノ曲だ。ぽろぽろと柔らかく零れだすようなピアノの音が気に入って、時々聞いている。

アンテがレコードをかけるのは、新緑に心が浮き立つとき、雲が流れて胸がざわつくとき、屋根を打つ雨音が灰色に部屋を包み込むとき。それから西陽が部屋じゅうをオレンジ色に染めるとき。
いつだったか、部屋に仔猫が紛れ込んできたときもそのレコードをかけてやった。

その日、遅めの昼食を終えたアンテがキッチンで食後の珈琲を淹れていると、どこからか仔猫の鳴き声がしたように思った。いや、赤ん坊の泣き声だろうか。このアパートの住人には家族連れもいる。アンテは音のするほうに気を取られかけたが、再び集中して珈琲の粉に湯を注ぎ続けた。ここからが特に、珈琲を美味しく仕上げるための大事な工程だ。

挽いたばかりで、まだしっとりと柔らかさの残る珈琲の粉に丁寧に湯を回し掛けていく。植木鉢にようやく芽吹いた双葉に如雨露で水をやるような気持ちだ。ポットの細い口から溢れた湯は、午後の陽を反射してガラスのねじり棒のようにきらめく。湯が粉に沁み込んでいくと、粉の色が赤土色から焦茶色に変わり、細かい泡が立つ。泡の表面には小さい虹が浮かび、珈琲の香りが鮮やかに立ち始めた。

すると今度はかなりはっきりと猫の鳴き声が聞こえた。振り返ると、足元に仔猫がちんまりとお座りし、こちらを見上げていた。アンテが珈琲に気を取られているうちに、風通しに開けておいた扉の隙間から入ってきたのだろう。

猫はまだほんのこどもで、耳だけが大きい。毛並みは真っ黒だがしっぽの先だけが灯りを点したように白い。野良猫なのか、毛艶はそんなに良くないが、眼はいきいきと動いて潤んだ瞳の真ん中に真珠のような光が浮かんでいる。

仔猫は、まだ毛のやわやわとした細いしっぽをぴんと立て、得意げにそのあたりを歩き回る。窓に伸び上がったり、ベッドの下にもぐったり、いっぱしに部屋中を点検しているつもりらしく、テーブルの脚や扉の陰にしっぽの白い星がちらちらと見え隠れする。部屋に、幼いいきものの居る気配が、なんだかくすぐったい。

ひとしきり辺りをあらため終えると猫は満足したらしく、キッチンに戻ってきた。アンテは少し考えた後、ミルクを水で薄めて小皿に出してやった。子猫はさっそく小さな桃色の舌を皿に浸し始める。

アンテはしゃがみこんでその様子を眺めていたが、ふと思い立って、棚からレコードを取り出してきた。「子犬のワルツ」という曲があると聞いたことがあるが、猫も音楽を喜ぶものだろうか。
慎重な手つきでレコードをプレーヤーに乗せ、そっと針を落とす。ここちよい緊張感と高揚。この瞬間が好きでアンテはレコードを聴くのかもしれない。

仔猫は皿から顔を上げ、ぐるぐる廻り始めた黒い円盤を小首をかしげて見つめている。飛びつきはしない。しばらく不思議そうな顔でのぞき込んでいたが、いざ曲が始まると大きなあくびをし、前足を揃えて伸びをすると丸くなって寝てしまった。音楽のおもてなしにはさして興味を惹かれなかったらしい。くるりとしっぽを巻き込み、満足げなようすで寝ている。寝息にしたがって背中が小さく上下している。

日で温もったテーブルに頬杖をついて、眠る猫を眺めているうちに、アンテもなんだか睡くなってきた。思いがけないお客さんを迎えているうちに、せっかくの珈琲もさめてしまった。このままひと休みしようかな。テーブルに乗せた肘を枕に、そのままアンテもしばし午睡となった。ひとりと一匹がまどろむ部屋で、すでに音楽の終わったレコードが、ぷつ、ぷつとかすかな針の音を立てて廻り続ける。

Ⅳ.凪のランプ

窓のそばにはがっしりした木のテーブルと、椅子がひとつ。テーブルの上には布張りのランプを置いている。食事のときも本を読むときにもこれを使う。「ある日」の記念として、町の古道具屋で買ってきたものだ。テーブルの木肌に柔らかく広がる光の加減がけっこう気に入っている。

***

その日のアンテは、傘骨と張地を前に額にじっとりと汗をにじませていた。型どおりに裁断した張地に最初の針を通すのだ。それも親方の目の前で。アンテの肩越しに、親方はアンテの手元を注視している。これから、アンテの縫製技術の確認が行われるのだ。

親方の傘工房では、傘は全て手作業で作られる。張地をミシンで縫う店は多いが、アンテの親方は未だに全て手縫いで仕上げるのだ。だからそんなに多くの注文は受けられないし、時代遅れだという人もいる。だが、どんなに頑固だと言われようと、親方は自分のやり方を譲らない。

「ミシンが悪いってわけじゃない。欲しい時にすぐ手に入る手ごろな傘もいいもんだ。だがこれは性分みたいなもんで、自分の手で縫わないとどうにも落ち着かない。鳥で言うなら、傘骨が翼の骨、張地は羽根だ。こいつがしっくり行ってないと、パッと差した時にふわりと浮かび上がるような傘にはならない。自分の掌で触れることで、はじめて傘の機嫌が分かるんだから仕方ない」

親方の言葉を思い出しながら、アンテは張地に掌を滑らせる。布地の厚みと滑らかさが、指の先から全身に伝わる。次は傘骨だ。よくしなうけれども決して折れることはない傘骨に、強靭な意志のようなものを感じる。この張地と傘骨なら仲良くやってくれそうだ。ただの気のせいかもしれない。だがアンテはそう信じた。作業台に張地を拡げ慎重に傘骨をあてがうと、アンテは息を吸い込み、最初のひと針を通した。針が、次いで縫い糸が、心地よい摩擦音を立てながら張地を突き抜け、ぴんと張りつめる。そして次の一針。

親方の厳しい視線を感じ、手が震えそうになる。だが、なんとか意識を引き戻して、掌に伝わる傘の呼吸を感じ取ろうとする。アンテは運針を続けた。

「よし、その辺で」
張地の一枚を縫い付け終えたタイミングで親方が声を発した。アンテは詰めていた息を一気に吐き出す。肩の力が抜けて作業台に倒れ込みそうになるが、まだ気は抜けない。いつもと変わらぬ親方の表情からは、アンテの仕事ぶりについての判定は読み取れない。

「今日はここまで。お疲れさん。今月の分だ」
アンテに給金を渡すとすぐ、親方は作業に戻るために背を向けた。
その時に親方の低い声が聞こえた。
「腕を上げたな」
空耳ではない。確かに聞こえた。アンテは一瞬固まった後、じわじわと喜びが込み上げてきた。

工房を出て、外の新鮮な空気を吸うと、その喜びは大っぴらなものになった。アンテは頬がゆるんでいるのを感じた。抑えようとしても笑みが湧きあがってくる。このまま帰るのは惜しい。もうちょっとこの気持ちに浸っていたい。このまま少し歩こう。

足取りも軽く歩き続けるうちに、そうだ、裏通りの古道具屋でものぞきに行こうと思いついた。大通りから一本入ると小路が続く。石畳を踏みしめ、迷路のように入り組む通りを進んでいく。店は袋小路の突き当りにあった。

「こんちは」
重い扉を開け、声をかける。返事はないがいつものことだ。そのまま店の奥まで進むと、店主が小机を前に、背中を丸めてかがみこんでいた。古布で何やら熱心に磨いている。いつものチョッキに眼鏡、その風貌は、店内を埋め尽くす古道具と同じぐらい年季が入っている。あるじと商品はどこか似てくるようだ。ずんぐりとした体躯に大きく丸い顔が乗っているところなどは、ずらりと並ぶ掛け時計に似ている。

天気が良い日も雨の日もまったく変わらず、古い小机にランプを照らし、手元をのぞき込んでいる。何かを磨いているか、修理しているかのどちらかで、立ち上がったところはみたことがない。

机の前に立ったアンテに、あるじはちらりと眼を上げたが、何を言うでもなくまた手元に視線を戻す。
これもいつものことなのでアンテは意に介さない。
「外は賑わってるよ。たまには外に出てみたらどうかな。うちの親方も言ってるよ、あんなに店に籠りっぱなしじゃ骨董と一緒に老け込んじまう、って」
店のあるじとアンテの親方は幼馴染なのだ。
「お生憎さま。こうしてるのが性分にあってるもんでね。それに外ばかりほっつき歩いてると古道具の声なんて聞こえなくなっちまう。あの偏屈おやじにそう伝えといてくれ」

あるじは不愛想にそう答えたが、その机の端にさりげなく、古い傘が立てかけてあるのをアンテは見逃さなかった。あるじにとってこの机は聖域であり、自分が認めたもの、本当に気に入ったものしか置かないということをアンテは知っている。傘は随分と使い込まれているが、持ち手には艶があり、傘布の張りも充分で、大事に使われているのが分かる。

傘はもちろん、アンテの親方が作ったものだ。けして口には出さないが、なんだかんだ言っても、頑固者同士、気が合うのだろう。「傘の機嫌」に「骨董の声」。言うことまでがそっくりだ。

アンテの視線に気づいたあるじは一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに表情を戻して
「その傘だって、昔のよしみで買ってやっただけだ」
と言ってのけた。
まったく……、
「素直じゃないんだ、あいつは」
そうぼやいていた親方の顔が浮かんでアンテは思わず口元をほころばせた。

さてと。
アンテは店内をあらためて見渡した。
いつもは冷やかすばかりだが、今日は記念に何か買っていこうか。そういえば本を読むのに、ランプのひとつぐらいあってもいいと思っていたところだ。店頭には大小さまざまなランプが並んでいる。ステンドグラスを嵌めこんだもの、ふっくらとした乳白色のほやを備えたもの。だがどのランプもアンテには手が出ない。そのとき、華やぐランプたちの陰に隠れるようにして、鈍い金色が見えた。

「これは」
灯りの下に引き出してみると、それは台座の部分が帆立貝の形をしたランプだった。埃にまみれてはいるが、それなりに凝った細工が施されている。どっしりと持ち重りのする真鍮の台は木のテーブルによく似あいそうだ。ただ惜しいことに笠が付いていない。アンテが逡巡していると、机に座ったままのあるじが眼鏡の奥からじろりとこちらをねめつけてきた。

「どうだ、そのランプは。お前には勿体ないほど良いものだぞ。とっておきの逸品だ」
「とっておきと言ったって、奥に突っ込んだまま今の今まで忘れてただろう。それに肝心の笠が付いてないじゃないか」
「そこに感謝してもらいたいね。本当はこんな高価な品物はお前には手が出ないはずだ。だけどまあ、おまえの親方のことは知らないわけでもない。笠もないから特別に負けてやろう」
と、尊大な態度で店主はのたまった。アンテがランプを気に入ったと見て取ったらしい。まったくこう見えて、けっこう商売上手なんだから。アンテは心の中でつぶやいたが、値引きには心を動かされた。
「いくら」
店主は片手を広げた。
まあいいか、今日はいい日だ。その記念に。

こうしてアンテはランプを手に入れた。

部屋に戻ったアンテはまず古布を引っ張りだした。テーブルにランプを据え、埃まみれの台を軽くぬぐう。店の片隅に長らく眠っていたらしいランプは、これだけでもだいぶすっきりした。それから腰を据えて磨き始めた。古びたランプは磨くほどにいきいきとした耀かがやきを取り戻す。思いのほかランプ磨きに熱中している自分に気づき、アンテは思わず笑ってしまった。子供のころ聞かされたおとぎ話を思い出したのだ。そのおとぎ話では、主人公が古びたランプを磨くと、煙とともに大男の妖精が出現し、主人の命令を何でも聞くのだ。

あるじが自慢するだけあって、確かにものはいいらしい。彫りの肉は厚く、ちょっとした細工がひとつひとつ凝っている。職人も愉しみながら作ったのだろう。巨人の召使いは現れなかったが、裏側の隠れたところに小さいタツノオトシゴが彫り込まれているのをアンテは発見した。

すっかり台を磨きあげてしまうと、次は笠の番だ。工房で余っていた針金を使って笠の枠をこしらえる。傘職人のアンテにとって、針金の扱いはお手のものだ。まず笠の仕上がりの幅を決め、その直径の輪を作る。さらに縦横に針金をからませる。しばらく手を動かしていくと、やがて主の居ない鳥籠のようなものができあがった。そこに、やはり余りものの傘布の切れ端を張りこんでいく。笠を仕上げ、真鍮の台座にはめ込み終わったアンテは、テーブルに肘をついて完成したばかりのランプを眺めていた。

しずかな夜更けに灯りを点していると、闇に浮かび上がったランプは、凪いだ海に浮かんだ帆船のようにも見えた。

《完》


「碧い港のファンタジア」全8話

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