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碧い港のファンタジア(連作短編 第一話)

【あらすじ】
三日月の夜にさまよう青い猫、回転木馬と不思議な少女、さびれた倉庫で暮らす謎めいた少年――。
きらめく海に抱かれた港町を舞台に、傘職人見習いのアンテは不思議な住人たちと出会う。汐風の香りと海の輝きを背景に、いくつもの物語がゆるやかに響き合い、つながってゆく。ほのかにファンタジックで、透明感あふれる連作短編集。

《1》三日月酒場

 
きのうで夏至は終わった。
すでに陽は傾きかけ、窓から見上げれば水色の空に淡い三日月が引っ掛かっている。微風が心地よくそよぎ、眼下の街には照り映えた西陽の色が淡い。
アンテは傘職人見習いである。親方と二人だけの工房はそれなりに忙しく、今日は久しぶりの休日だった。

アンテの部屋は高台にある。ここまでたどり着くまでの坂はきついが、窓から身を乗り出せば、遠くに小さく海の切れ端と観覧車が見える。
アンテがこの部屋に越して来たのはちょうど一年ほど前になる。それまで住んでいたところの取り壊しが決まって慌てていたところ、工房の客のひとりが声を掛けてくれたのだ。宿なしになりかけていたアンテは、下見もせず二つ返事で承知した。

部屋の引き渡しの日、アンテは、案内の地図を片手に、息を切らせながら初夏の石畳の坂をのぼった。坂を上るにつれ周囲の緑が濃くなる。近くには大きな公園があるとの話で、なるほど道にはみ出るほどに葉を茂らせた樹々も増えてきた。額にうっすらと汗がうかんできた頃、ようやく地図に印をつけてある建物に辿りついた。建物は淡い代赭色のこじんまりとした三階建てだ。築は古いがその分落ち着いた雰囲気がある。アンテの部屋は最上階になるので見晴らしもよさそうだ。

しかしアンテは、早くもこの引っ越しを後悔し始めていた。実はアンテは坂が大の苦手なのだ。さらにここは山の気配が濃く、樹々の緑がむせ返るように重い。これまで空の開けた平地にしか住んだことのなかったアンテは、自分がこうした濃密な気配が苦手だということを意識していなかった。でももう遅い。肝心なことはいつも決めてしまってから思い出すのだ。これからの暮らしを思い、アンテは小さく息をついた。

しかし、実際に暮らし始めてみると、高台は風が良く通り、気分も変わった。漆喰の壁と木の床の部屋で飲む珈琲はいつもより美味く思える。さらにこの街界隈は楽しみが多い。坂を下れば港に出る。サーカスめいた賑わいを見せる港には大きな船が停泊し、色とりどりの旗をたなびかせている。港に面したホテルは身なりを整えた外国客でにぎわい、中庭では白い服を着た給仕によって午後のお茶が供される。晴れの日はもちろんのこと、雨の日もなかなか悪くない。空から落ちてくる無数の雨粒に海辺の観覧車の彩りが映り込み、色とりどりの果汁のように弾ける。日が暮れて一杯やりたくなれば運河沿いの下町にどうぞ。酒も肴もお好み次第でなんでもござれだ。

そんなことを考えているうちに、夕暮れが迫りつつあった。
「さ、行くか」
椅子に掛けてあったシャツを羽織るとアンテは部屋を出た。樹々の枝越しに三日月がちらちらと覗く。空にはまだ僅かに水色が残っている。その色と同じ色の自転車にまたがり、夕べの菫色に染まり始めた坂を下っていった。

坂の下に着いた頃には街はとっぷりと暮れて、そこかしこに橙色の灯がともり始めている。酒場の軒先には木製のテーブルが並べられ、卓上のランプは早くも上機嫌な男たちの赤ら顔を照らしだしている。
乗ってきた自転車を壁に立てかけて、アンテは一軒の店に入った。狭い店内は常連で賑わっている。

「よう、アンテ。そろそろ来ると思ってたよ」
店主のトイが椅子から立ち上がった。アンテの肩を抱いて、分厚い掌で叩く。
「痛いよ、トイ。もう出来上がってるのか。顔が赤いぞ」
トイは根っからの酒好きだ。飲み始めると商売はそっちのけ。日が暮れるが早いか店はおかみのホリーに任せっきりで、今宵もすでに常連と一杯機嫌だ。
「まあそう言うなって。お前もこれぐらいの年齢(とし)になればわかるさ」
「そんなもんかね」
「たまにはこっちに座れよ。オヤジの言う事は聞くもんだ」

酔っ払いたちのいつものやりとりを、ホリーはフライパンを振りながら、やれやれといった風情で聴いている。
「あんた、その辺にしておおきよ。アンテ、いらっしゃい」
「こんばんは、ホリー」
トイはまだ食い下がる。
「アンテ、ビールを奢るよ。どうだ一杯」
「いや、今日は遠慮しておくよ。ホリー、いつものを頼む」
 アンテが好きなのは、透明で舌をピリッと刺すような強い蒸留酒だ。
「相変わらず愛想がねえな。まあそんなところがお前らしくていいや」
「それはどうも」
いつのまにかアンテの指定席のようになっているカウンターの端に陣取ると、さっそく「海のピッツァ」が出てきた。港が近いこの街の名物だ。薄手の生地に、塩漬けの小魚とハーブの小枝を載せただけのシンプルな料理だが、汐の香りとカリカリに焼けた生地が蒸留酒とよく合う。酒を一杯とこの一皿だけで軽く夕食を済ませ、カウンターの上に代金を置くとアンテは席を立った。
「ごちそうさま、ホリー。美味しかった。またくるよ、トイ」
「おう、待ってるよ」

鋲の打たれた重い木の扉を閉めると店のざわめきは消え、急に夜空が近く感じられた。
「さて、帰りは歩いて酔い醒ましと」
壁に立てかけておいた自転車に手を伸ばしかけたが、その時なにかがアンテの視界を横切った。
「猫、それにしては……」
妙な色だ。淡い青。港の近くだけあって界隈に猫は多いが、あんな色の猫は見たことがない。白でもぶちでも灰色でもなく、艶やかな毛並が淡く蒼く光っていた。自転車を置きっぱなしにしたまま、気づくとアンテは猫の後を追って歩いていた。曲がり角で居なくなったかと思うとふと現れ、異様に輝く黄金|《きん》色の眼をからかうように細めては、また次の角にするりと入っていく。追いつけそうで追いつけない。夜露の降りた石畳に、いくつもの街灯が猫とアンテの影を長く伸ばす。

裏道を通り抜け、石造りの街並みを彷徨い、淡青色の猫を追っていくうちにアンテは見たことのない酒場に辿り着いた。古めかしい看板に酒瓶が描かれているが、店の名は見当たらない。だがとにかく、猫はこの入口で見失った。

錆の浮いた鉄扉を押してアンテは中に入った。外から見た店の武骨な雰囲気に比べ、室内は意外なほど瀟洒なつくりだった。白い石壁に、優美な曲線を描いた鉄製の黒い壁飾りが打ってある。誰の姿も見当たらず、ひっそりとした空間はほの蒼い光に満たされている。見上げれば天井には天窓が穿たれ、そこから月明かりが差し込んでいるのだった。 

「なんになさいますか」
背後から声を掛けられ、アンテはびくりと振り向いた。いつの間にかカウンターには灯りが点り、銀縁の眼鏡をかけた男がいたのだ。細身の男は、ゆったりとした手つきで手元のグラスをリネンで拭き上げている。視線はグラスに落としたままだが、口元には不思議な微笑みが浮かんでいる。まるでアンテがこの場所に来ることを知っていたかのような落ち着きぶりだ。手元の灯りの中には男の指が白く浮かび上がり、グラスを扱うたび細い蛇のようにうごめく。

「なんになさいます」
もう一度声を掛けられ、我に返ったアンテは高い丸椅子に座を占め、男の背後の酒棚を眺めた。紅玉ルビーのような赤い酒、翡翠ジェイドのように緑色に濁った酒。さまざまな酒壜が立ち並ぶ中、天窓から差し込んだ月の光にひときわ輝く青い酒があった。透明な瓶に封じこめられた青い蒸留酒スピリッツ
「それを頼むよ」
「かしこまりました」
クリスタルのグラスに注がれた酒は月光を湛えてきらきらと輝いている。
「ようやくつかまえた」
アンテは呟き、掌の中で揺れる青い液体を一気にあおった。酒は強い薄荷の薫りを立てながらするりと喉に滑り込む。氷のように蒼く冷たく、薄荷の薫りは喉を通っていったが、胃の腑まで届いたとたんにカッと熱を発した。
と、一閃、黄金きん色の目眩がアンテのからだを鋭くはしり抜けた。しなやかな獣の姿が脳裏によぎる。
「やっぱり、おまえだったな」
男に送られて店を出ると、三日月はさらにほそく。夜半を過ぎ、月は四日月に入った。

《完》


「碧い港のファンタジア」 全8話(連作短編)
第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話(完)

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