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写真家ブラッシャイとパリの夜

ブラッシャイ(Brassai, ジュラ・ハラース 、Gyula Halász,1899-1984):オーストリア・ハンガリー帝国時代の出身で、パリで活躍したジャーナリスト・写真家。ハンガリー、フランス国籍。
(註)ブラッシャイは、ブラッショー(ハンガリー語: Brassó)の出身から名乗る。

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(c)Brassai

略歴-Brassai
モンパルナスに集まる若いアーティストたちと付き合いながら、ジャーナリストとして、アメリカ人作家ヘンリー・ミラー(Henry Valentine Miller, 1891-1980)や多くのフランス人作家と出会いがあった。
そして、ブラッシャイは記事ための写真を撮り始めた。ケルテース・アンドル(Kertész Andor,1894-1985/ハンガリー出身の著名な写真家) に撮影手法を伝授されている。それは、マグネシウム(閃光粉)を使ったフラッシュだった、そして、1929年に閃光電球が開発・発売されている。
もう少し具体的に言えば、ヘンリー・ミラー、ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert,1900-1977、映画作家、詩人)らと、夜のパリを歩き回り、そこで出会う人々を撮影している、そこには、娼婦や恋人たち等の作品が多い。パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)、アンリ・マティス(Henri Matisse, 1869-1954)、アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti,1901-1966,彫刻家)、ジャン・コクトー(Jean Cocteau ,1889-1963/詩人)、サルバドール・ダリ(Salvador Dalí,1904-1984)、等々の同時代の芸術家たちとも親交があった。

3歳の時にパンテオン・ソルボンヌ大学(パリ大学)で文学を教える父親に付いてパリで暮らす、その経験は後に生かされたのだろう。ブラッシャイはブダペストで彫刻や美術を学ぶが、その後オーストリア=ハンガリー帝国軍に参加し、第一次世界大戦に従軍した。
1920年にベルリンに移り、学びながらジャーナリストとしても働き、1924年にパリへ移住し、以後パリを拠点とするようになる。

余談だが、岡本太郎がパリに留学中のときから親交があったと言われる。戦後再会した時に、彼の写真を岡本太郎は、日本の出版社をあたった、そして、写真集「未知のパリ・深夜のパリ」みすず書房(1977年)が、国内で発刊された。これで感じる事は、ブラッシャイの人間性とその影響力が、そうさせたという事だろう。

ここまで、記して、わかる事は、その時代の写真の技術もあるが、まずは、その夜の街や人々を撮影をするにあたっては、そこに暮らす人たちに受け入れられることが不可欠だ。そこは、ブラッシャイの気さくな人柄と信義のある人間性が、被写体となった人々に受け入れられたと言われる。私的な見解だが、その夜の街の人たちの中には、やらせと推測できるコンテンツもある事は確かだ。それは、それで2次情報としての伝達でよいのだろう。(いわゆるLIFEの作られた報道写真と同じだろう。)

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Fig.Brassai

「写真の世界でスランプになるのを防ぐ手としたら・・・
・・・・・・・・・・
写真を撮ることさえも諦める。
そうすることによってはじめて、もう一度、はっきりとした熱意で、写真のもとに戻ることができる。
我々にとっていちばん大切なことは、天から与えられているものは何かということだ」Brassai
表象する者は記憶に留めていきたい文言だ。

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