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輝く季節を旅する -フォークナーの小説『八月の光』の美しさ


 
 
【水曜日は文学の日】
 
 
光あるところに影があるように、物事には、二つの対照的な側面があります。
 
しかし、例えば一つの小説の中で全く対照的な物語を進めることは、案外困難で、少ないように感じます。

アメリカの小説家ウィリアム・フォークナーの1932年の長篇『八月の光』は、二つの異なった物語を合わせた傑作であり、しかも、驚くべき後味のよさを持つ作品です。




道ばたに坐り込み、馬車が坂道を登って近づいてくるのを見ながら、リーナは思う。『あたしはアラバマからやってきた。遠くまで来たものね。はるばるアラバマから歩いてきた。ほんとに遠くまで来たものね』 

黒原敏行訳


物語は、リーナ・グローブという少女の話から始まります。身重の身の彼女は、お腹の子供の父親であるルーカス・バーチという男を追って、南部のミシシッピ州ジェファーソンまでやってきます。
 
そして、何かと親切な男、バイロン・バンチという男と知り合い、ルーカスを探すことになります。




もう一つのパートは、ジョー・クリスマスという男の話です。クリスマスの夜に孤児院の前で捨てられ、おそらくは黒人の血を引いているが、見た目では分かりません。
 
本人も自分が何者か分からないまま、孤独に放浪を繰り返した後、ここジェファーソンに住みつくことに。人々から(黒人に理解を示しているため)疎外されている妙齢の白人女性ジョアナ・バーデンと、異様な関係を結びます。そして、二人の関係はある時、恐るべき事件を引き起こします。。。




この二つのパートが交互に緊密に絡み合って、小説は進みます。リーナのパートは、非常に人を信じやすく何とも暢気な性格のリーナの力か、総じて出てくる人はいい人ばかりで、明るくほのぼのしています。
 
それが光のパートとすれば、ジョーのパートは闇のパートと言っていいでしょう。

自分が何者か分からず、誰も信用できず、社会の外側で、破滅への道をひた走るこの男の性格に引っ張られるように、暗く、偏見に満ちた人物たちが容赦なく人の心を打ち砕いていきます。
 
この異なる二つの味の見事な交錯、そして全く関係ないはずの両者が、一体何で結びついているのかは、是非読んで確かめていただければと思います。




ウィリアム・フォークナーは、1897年、ミシシッピ州生まれ。大学時代に小説や詩を書き始め、1926年、『兵士の報酬』でデビュー。この頃は、ヘミングウェイの影響を受けた、無気力な第一次大戦後の若者「ロスト・ジェネレーション」を描く作風でした。

 

ウィリアム・フォークナー


しかし、1929年、長篇三作目『サートリス』で、故郷の南部を舞台にすることを見つけると四作目『響きと怒り』で大化けします。
 
3人の異なる人物を語り手として、心の中の独白を強烈な形で刻み付け、滅亡へと向かう南部の因習に満ちた一族を描くこの作品で、一挙に独自の作品世界を築いていくことに。
 
南部の架空の街、ヨクナパトーファを舞台として、違う小説の人物が、何度も再登場する「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれる作品群を創りあげます。
 
その作品群はつい最近文庫化された『百年の孤独』のガルシア・マルケスや、大江健三郎、中上健次等、多くの作家に影響を与えました。二十世紀の重要な作家として十指に入るでしょう。





フォークナーの作品世界は、ゴシック的世界をモダニズムで包んだものと考えてよいでしょう。
 
絡まり合う比喩の続く、執拗に暗い文体は、おどろおどろしい怪奇譚、ある種アメリカンゴシックの世界と言えなくもない。それを「人物再登場」や、視点の切り替えによって、粉々に砕いて再構築するようなところがあります。
 
そして、意外と泥臭いユーモアがあること。長編『町』や遺作『自動車泥棒』のような、洗練されているとは言い難い、滑稽譚のような部分がある。
 
そして勿論、自身の出自である南部の、黒人奴隷問題、偏見と、貧しい白人たちの窮乏といった、現在でもアクチュアルな問題がこだましている。
 
こうした彼の特徴が、ほぼすべて見事にちりばめられたのが『八月の光』と言えます。




そして『八月の光』は、そんなフォークナーの特徴が、光によってより鮮明に輝くような美しさがあります。
 
それは何よりも、終盤の構成の妙でしょう。

おそろしく緊密なクライマックスがあり、物静かなパートの後、突如、今まで出てこなかった、無名の男が語り手になります。
 
彼が妻に語る、旅するリーナの姿。その終章は、驚くほど前向きな希望に満ちています。簡素な語りから浮かび上がってくるのは、何の変哲もない素朴な女性のはずなのに、どこか太古の神話の女神のようなおおらかな存在です。
 
フォークナーは、このタイトルについて、こう説明しています。


ミシシッピ州の八月には、月の半ばごろ、とつぜん秋の前触れのような日がやってくる。暑さが落ちて、大気に満ちる光は、今日の太陽からくるというよりも、古代ギリシアのオリンポス山あたりから差しこんでくる感じになる。

この作品の題の意味はそれだけのものである。この光は一、二日しか続かないが、とにかく私の土地では八月には必ずやってくるのであって、これは私には含みのある面白い題だと感じられたのだ。

なぜならこれはキリスト教文明よりも古い時代の輝かしさを、私に思い出させるからだ。

しいて言えば、この古代そのもののような光は、子を産むために世間体や宗教的倫理などを気にしない女リーナと結びつくかもしれない。

『大学におけるフォークナー』


まさに、『八月の光』の美しさとは、リーナを通して、ジョーたちの醜い偏見と、孤独と、不寛容の闇が、溢れる光の中で浄化されることにあるように思えます。

そうした偏見を直接罰するのではなく、大らかな神話的な光がいっぱいに広がることで、消えていくのです。
 
多くの小説では、波乱万丈のストーリーがあっても、実は結構似た傾向の人物の物語を繋げている場合が多いです。しかし、『八月の光』では、輝かしい真夏の旅によって、全く違う光と闇が縒り合わさり、最後は神話的な美を帯びる。
 
文豪フォークナーの作品でも、世界文学でも稀な、人間の罪が旅の風の中に消えるような瞬間。『八月の光』はそんな驚くべき時間を捉えた名作です。そんな奇跡を味わうために私は小説や詩を読み続けているのかもしれません。



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