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穏やかに輝く日々の結晶 -名作小説『晩夏』の魅力

 

 
【水曜日は文学の日】
 
 
 
小説には様々な楽しみ方があるのが、その魅力の一つでしょう。
 
オーストリアの小説家シュティフターの長篇小説『晩夏』の素晴らしさは、ある意味退屈でありながら、読むうちに作品が段々と熱を帯びて、不思議な感動を覚えるところにあります。




アーダルベルト・シュティフターは、1805年、現在のチェコ領のオーバープラーン生まれ。麻の商売をも手掛ける農家で農業の手伝いをしながら育ちます。ウィーン大学で法学を学ぶも、家庭教師をしながら、画家として活動します。
 

アーダルベルト・シュティフター


風光明媚な風景画を中心とする油絵を残しており、驚くほど本格的な絵です。近代の職業的文学者の中では、おそらくトップクラスの腕前ではないでしょうか。
 
本人は小説家になるつもりはなかったのですが、35歳の時、訪れたサロンで、たまたまポケットの中に書きかけの原稿があるのを見つけられ、それをきっかけに短編を完成。
 
それが雑誌に載ったことで、次々に小説を発表することになります。短編集『石さまざま』等、邦訳された作品も多いです。
 
宰相メッテルニヒの息子の家庭教師になり、音楽家シューマン夫妻と知り合ったりもします。1848年のオーストリア三月革命以降は行政官の顧問にもなり、教育改革にも従事しています。『晩夏』は、1857年、52歳の時の作品であり、構想から4年をかけた大作です。


シュティフター『ゴーザウ谷にて』


語り手で自然科学者の「わたし」は、アルプスの地質や鉱物を調べるため、旅をしています。雨宿りに寄った、花に覆われた「薔薇の家」で、リーザハ男爵と出会います。
 
「薔薇の家」で過ごすうちに、自然科学と芸術の深い教養を持つリーザハに「わたし」は感銘を受け、以降、何度も彼の元を訪れることに。
 
リーザハの養子のグスタフ、そして、彼の母のマティルデ、娘のナターリエと知り合い、「わたし」の運命は、徐々に動いていくことになります。




一言で言えば、主に「薔薇の家」で繰り広げられる、「わたし」の成長を見守る、教養小説です。

しかし、そこに自然科学や芸術を巡る主人公たちの議論や、過去の回想が接ぎ木されて、不思議な膨らみ方をしています。
 
ここに出てくる自然科学とは、宇宙的な理論の話ではなく、人間を取り巻く自然がどのようなもので、それとどうやって向き合うべきかという、具体的なものです。
 
古代趣味の芸術も、つまりは人間が如何に心地よく過ごせるか、善良に生きられるのかという問題です。




その象徴が「薔薇の家」であることは間違いありません。
 
花々と動植物に満たされ、美と調和を兼ね備えたその屋敷は、決して華美と退廃に染まっていません。
 
寧ろ、その美を維持し、保守するために、科学的な理論と日々の実践の継続を必要とする。そんな生き方を「わたし」は、学んでいくのです。
 
そして、読み進めるうちに、芸術や科学の談義と、風光明媚な自然描写が溶け合い、その穏やかな陽光が全てを満たすような気分になっていきます。
 
ゲーテよりもゲーテ的な調和に満ちていると言いたくなる、そんなゆったりとした速度のまま、やがて静かな大団円を迎えるのです。


『晩夏』初版本の扉絵




しかし、この小説でよく言われるのは、とにかく退屈だということです。
 
ニーチェやリルケ、トーマス・マン等の絶賛を受けながら、同時代の批評家からは「読み終えた読者にはポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評を受けています。

現代読む人でも、間違いなく一定数(あるいは大多数?)は、退屈な印象を受けるでしょう。




一体なぜ「退屈」と感じてしまうのか。おそらく、ここに「悪」がないからです。
 
リーザハや、主要人物たちは、絵に描いたような善良な人物で、この「薔薇の家」を乱す悪や闖入者は存在しません。それ故に分かりやすい劇的な展開はありません。
 
そして何よりも、語り手である「わたし」が、非常に素直で、葛藤したりせず、目の前の出来事を淡々と受け入れていきます。
 
何というか、葛藤が無さ過ぎて、ネガティブな意味ではなく、人の心がないのか、と思う瞬間もあります。

彼が、人間のちっぽけな諍い以上の、自然の秩序との調和に、喜びを見出しているのが分かります。それは、登場人物全員に言えることでもあります。


シュティフター
『ホーエンフルト近くの悪魔の壁 (キーンベルク)』


その淡々とした日記的な記述から、どこか童話的な感触もあります。教訓と山々の自然と光が溢れる、大人たちの童話。
 
クライマックスのリーザハの回想は、それなりに劇的なのですが、揺らぎのない語りゆえ、ドラマに馴れた人には、反時代的で「退屈」に思えてしまう面もあるのでしょう。


シュティフター
『ケーニッヒ湖よりヴァッツマン山を臨む』




実のところ、「反時代的」というのは、作者のシュティフター自身が、意図したところでした。悪人が出てこないのも、作者が意識的に書いています。
 
現代の悪や堕落を嫌い、倫理的な力をその代わりに置きたいといった内容の手紙が残っています。
 
そこに、彼の「ビーダーマイヤー的価値観」を読み取る人もいます。
 
「ビーダーマイヤー」とは、ナポレオン失脚後、メッテルニヒ中心の反動的なウィーン体制で花開き、1848年の革命まで続いた、市民的で、穏やかで、古典的な文化です。その時代を生きたシューベルトの歌曲やピアノ曲のイメージです。

ビーダーマイヤー様式の室内


 
しかし、シューベルトの中に、歌曲集『冬の旅』の身を切る哀しみや、ピアノソナタ21番の、涅槃のような凍り付いた光景があるように、シュティフター自身は、決して穏健で朗らかな人生を歩んだわけではありません。




彼は、若い頃に、裕福な商人の娘と初めて恋に落ちるも、定職についていないが故、周囲に反対され結婚できませんでした。
 
30歳になって別の女性と縁あって結婚しましが、本当に愛しているのは、ただ一人君だけだ、と初恋の女性に手紙を送っています。リーザハの物語そのままです。
 
そして、妻との間に子供は出来ず、養女を迎えたものの、彼女は精神を病んで、ドナウ川に投身自殺。
 
晩年のシュティフターは肝臓癌に冒されて療養するも、苦痛に耐えかね、発作的に剃刀で喉を切り、自殺しました。享年63歳でした。




おそらく、『晩夏』の裏には、人生への激しい幻滅と激痛を伴う絶望が存在しているのでしょう。
 
マグマの熱によって溶けた鉱石が、やがて固まって美しい宝石となるように、幻滅や痛みを登場人物たちによって濾過したうえで、私たちの目の前に、陽光に照らされた人生の輝きを結晶として取り出したのが、この小説なのでしょう。
 
だからこの小説は、決して悪や世の中を知らない人間の夢想ではありません。そう呼ぶには、大人で、深甚すぎる。

私は、どこかの一節を好きになるというよりも、その深甚な全体の空気感を味わうために、読み返したくなります。




おそらく、この小説が退屈だというのは間違っていないのでしょう。

これはおそらく、私たちの人生のように退屈な小説。

つまりは、私たちの人生のように美しい小説だということなのでしょう。

機会がありましたら、是非そんな作品に触れてみていただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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