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太古の森のきらめく夢 -オペラ『魔弾の射手』の魅力


 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
オペラには、主に二つの軸があると思っています。一つは、お涙頂戴のメロドラマ。もう一つは、どこか懐かしい御伽噺。
 
前者が、近代的な感覚だとすれば、後者は、オペラが生まれたバロック時代の匂いを濃厚に残したアルカイックな感覚です。
 
勿論、多くのオペラはこの二つが様々な割合で交じり合っているのですが、ウェーバーの『魔弾の射手』は、後者に振り切った、森の御伽噺のような美しいオペラです。






カール・マリア・フォン・ウェーバーは、1786年、当時の神聖ローマ帝国のリューベック生まれ。

父が劇団を経営していたこともあり、音楽の才能を示すと、オペラ作曲やドイツ各地の歌劇場の監督をして、頭角を現します。
 


1817年、ザクセンの宮廷楽長に就任し、ドレスデンの歌劇場を任されることに。『魔弾の射手』は、1821年、ベルリンで初演され、大成功を収めます。
 
その後も歌劇『オベロン』等興味深い作品はあったものの、結核に罹り、1826年、39歳で死去。翌年には、16歳年上のベートーヴェンが亡くなっています。まさにこれからという時の、惜しまれる死でした。




舞台は、30年戦争後の中世ボヘミアの森。幕が上がると、農民たちがお祭り騒ぎ。名射手の若者マックスが、射撃勝負で農夫のキリアンに敗れたのです。
 
マックスは、護林官クーノーの娘アガーテと婚約しています。明日の御前試合で優勝しなければ、結婚はできません。スランプで絶望するマックスの元に、カスパールという男が近づきます。
 
悪魔ザミエルに魂を売っていたカスパールはマックスに、夜中の12時に「狼の谷」へ行こう、そこで百発百中の伝説の「魔弾」を見つければ試合に勝てると誘惑します。マックスはアガーテを思うあまり、その話に乗ってしまいます。。。



 
このオペラの魅力は、森の香りが濃厚に漂う、その雰囲気でしょう。
 
開始の農民の騒ぎや、退場時の素朴なワルツ。花嫁の付き添いの乙女たちの、愛らしい短いコーラス。

そして、「ヨッホッホトララッラ」という掛け声も楽しい、第三幕の男くさい『狩人の合唱』。森の民、山の民の陽気さ、楽しさが伝わります。




 
それらが真昼の森の楽しさとすれば、夜の森の神秘も兼ね備えています。
 
何といっても、魔弾を手に入れるための、第二幕の狼の谷の場面。悪魔とおどろおどろしい幻想が跋扈する、その重たい響きは、当時の観客に、身も凍るような恐怖を与えたことでしょう。
 
そしてアガーテが一人歌うアリアの美しさ。静かな森の夜の、清浄な空気が伝わるかのような、柔らかい旋律で、その直後に来る「狼の谷」の劇的さを際立たせています。

『狼の谷』の場面




このように、音楽面から言うと、まさに森の感じがするのですが、ドラマとしてみると、結構粗雑な作品でもあります。
 
撃たれた人物が助かったり、それが別の人物に命中して悪の報いを受けたり。いや、なぜそんな都合のいいことが起こるのか、と初見では多くの人が思うはず。
 
そして多くの人がのけぞるのが、劇の最後に初めて現れる「とある人物」でしょう。




試合当日の大混乱の場に突然出てきて、全てを丸く収めてしまう、異様な存在。
 
これはいわゆる「デウス・エクス・マキナ」つまり、古代ギリシアの悲劇で、全てがどうにも収拾つかなくなった時に現れ、劇を強引にハッピーエンドに終わらせる「機械仕掛けの神」です。
 
それを、普段は森の奥にいて、村の人々に崇められている聖なる存在にしたのがうまい。
 
一見強引な展開も、実はこの人物の意図が見え隠れしています。

つまり、超自然的な存在の導きと意志によって、若者を堕落させる悪は退治され、森の共同体は維持されることになるのです。




そういった部分からも、これは、初めから終わりまで、森の中で暮らす人たちのために創られた作品です。彼らこそが、この感覚を分かる。

もっと言うと、森で暮らしていなくても、森を自分の故郷と感じている人たちのための作品です。




実を言うと、『魔弾の射手』を作曲した頃のウェーバーは、宮廷で、スポンティーニら、イタリア出身の作曲家と、激しい権力闘争を繰り広げていました。
 
イタリア風の流麗なオペラではなく、ドイツ風のオペラを創りたい。フィヒテが、1808年に『ドイツ国民に告ぐ』を発表して以来、ドイツ国内の愛国心は高まっていました。
 
ドイツの人たちが分かる、ドイツ語のオペラ。台詞の芝居と歌が一体になった歌劇(ジングシュピールと言います)、つまりはドイツの民衆のためのオペラを。

そんな流れで、イタリアには絶対にない、暗い森の濃密な雰囲気をまとう『魔弾の射手』は生まれたのです。




しかし、それは、決して「古来の伝統」ではない、「作られた伝統」だったことは指摘しておくべきでしょう。

そもそも、ウェーバーは、ドイツ的な作曲家というより、「異国オペラ」の名手であり、『魔弾の射手』にも、ドニゼッティらイタリアオペラのエコーが木霊しています(先のアガーテのアリアは、先入観を除けば、イタリアのヒロインオペラ的な旋律です)。
 
音楽評論家の岡田暁生氏が『オペラの運命』の中で、『魔弾の射手』を「ローカルカラー表現の達人ウェーバーが、母国ドイツの森を舞台にして作った異国オペラなのかもしれない」と書いているのは、正しいのでしょう。






ただ、この作品は、そういったいかがわしさを持ちつつも、まだ、どこかほのぼのとした御伽噺にとどまっているのが、魅力のように思えます。
 
ウェーバーの影響を受けたワーグナーの、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』になると、19世紀後半のナショナリズムの高まりを受け、もっと露骨に「ドイツ的なもの」が顕揚されます。そしてそれは、後にナチスに徹底的に利用されることになります。
 
『魔弾の射手』は、ナショナリズムという言葉すらまだできたての時期の、故郷への素朴な郷愁のようなものにくるまれて、うっすらと柔らかい光を発しているかのようにも思えます。

その光があるからこそ、私のように遠く離れた異国の人間にも、このお伽噺は魅力的に感じるのでしょう。




このオペラの録音として真っ先に薦めたいのは、カルロス・クライバーがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した、グラモフォン盤です。
 
天才クライバーの強烈な指揮によって、田舎芝居どころか、強烈な歓喜と生命力の劇的な音楽になっています。

とにかく、冒頭の「勝利だ!」という農民たちの歓喜のコーラスのとんでもないスピード感とパワーを感じてもらえれば。私も愛聴している、まさに、名盤中の名盤です。




流石にこれではクライバーの独自色が強すぎるので、もう少しオーソドックスなものだと、オイゲン・ヨッフムがバイエルン放送楽団を指揮した録音もいい。鄙びた質素な響きに包まれ、ラストは、どこか聖歌を思わせる清らかな歓喜のようなものが感じられます。



 
その清らかさ、宗教的な美しさは、国境や時代を超えた、ある種普遍の美しさと言えるかもしれません。

森という、生命と神秘の宿った場所を見つけた人類が感じた喜びや驚き。

そんな太古の記憶を、きらめきと共にほんの少しでも味合わせてくれるのが、この名作なのでしょう。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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