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プリズムで人生を照らす -傑作映画『天が許し給うすべて』の魅力

【木曜日は映画の日】
 
 
 
以前、映画のカメラマンを紹介したことがあります。その中でも、自然な光を捉えるタイプと、人口の光を捉えるタイプのカメラマンがいました。

人工的な場面を作るカメラマンや映画監督は、光に意味を持たせます。自然ではない光によって、登場人物の心情に意味を持たせて、鑑賞者にそれを味合わせるのです。





そうした人工的な光によって彩られた傑作メロドラマの一つに、ダグラス・サーク監督の、1955年のアメリカ映画『天が許し給うすべて』があります。
 
現実にはあり得ない人工的な光が横溢する、こてこてなまでのメロドラマなのですが、現実ではありえないからこそ、リアルに迫ってくる映画になっているのです。


『天が許し給うすべて』





ダグラス・サークは、1930年代にドイツで舞台演出家として活躍し、映画界に入った監督です。優れたドラマを何本も撮るも、妻がユダヤ人のため、アメリカに亡命。B級映画を何本も創って認められ、大手会社のユニバーサルスタジオで撮れるようになります。
 
『天が許し給うすべて』のスタッフは、撮影のラッセル・メティ、美術のアレクサンダー・ゴリツェン、音楽のフランク・スキナー等、いずれも当時のハリウッドトップレベルの名手です。

潤沢な予算と、当時のスター俳優のジェーン・ワイマン、ロック・ハドソンを使って撮られたハリウッドの粋が結集した素晴らしいメロドラマ映画です。
 
 




 
舞台は1950年代のアメリカ。未亡人の中年女性キャリーは、郊外の大きな家で裕福に暮らしています。

大学生の息子と娘は、週末に帰ってくるだけ。再婚を勧められても、今ひとつ気乗りがせず、穏やかな生活を過ごしています。
 
そんなある日、庭の手入れをしてくれた若い庭師の男、ロンと話をするようになります。自然を愛し、気取らないロンの生活に触れることで、徐々に惹かれるキャリー。二人は愛し合うようになります。
 
しかし、キャリーの隣人の上流階級の社会、そして彼女の子供たちが、そんな二人を放っておくはずもなく、二人に試練が訪れます。


キャリー(左。ジェーン・ワイマン)
ロン(右。ロック・ハドソン)

ワイマンは、後の大統領で俳優の
ロナルド・レーガンの最初の妻。
ハドソンは、この映画から30年後、
ハリウッドでいち早く
ゲイであることをカミングアウトし、
エイズで亡くなった


 
まず驚くのは、この作品の色彩設計でしょう。昼のキャリーの家は、秋の陽光のようなほんのりとしたセピアに色づいています。しかし、夜の室内になると、屋外からの青い光と、オレンジ色の室内の光が横溢します。そして、キャリーが社交クラブに来ていくドレスは、目が覚めるほどの赤色です。


青い夜と、暖色の室内。
赤いドレスのキャリー


 
この作品の肝は、この青い夜の光と、親密なオレンジ色の光です。
 
補色となっているこの二つが最も色濃く表れるのは、ロンがキャリーのために整理した、湖畔の小屋での場面です。2人の真摯で親密な愛と、その絶望的なまでの困難さが、室内のあかあかとした暖炉の火と、窓からの青い光に象徴されています。


暖炉のオレンジ色の火に照らされて憩う2人


屋外からの青い光に染まる2人





そして、この作品の魅力は、まさに補色をなす二つの概念の対比と言えます。
 
ロンは、自然を育てることを愛し、コミューンのような、緩いつながりの仲間がいます。

小屋のような場所で、素朴な服を着て、一緒に簡素な自然の食事を食べ、皆で笑顔で踊ったりする、親密な仲間です。キャリーも観客も、そこで心からの安らぎを覚えます。

小屋での仲間との楽しいひと時


 
それに対して、キャリーが出入りする社交クラブは、お金持ちたちのけばけばしい色彩のドレスと、どこか冷ややかな光の場所です。

そこにあるのは、悪意に満ちた、自分の退屈しのぎのためのゴシップ、慇懃無礼な態度であり、醜悪で、心の落ち着くことがない場所です。

社交クラブでの、キャリーと
親友のサラ(左。アグネス・ムーアヘッド)
ムーアヘッドはTVドラマ『奥さまは魔女』の
サマンサの母親役で有名




 
キャリーの娘のケイが、母親がロンと付き合っていることを噂されていると泣きながら訴える(直接ロンと別れろと言わないところに、社交クラブの人々と同様のケイの人格がよく表れています)、寝室の場面に、そうした醜悪さが見事に凝縮されています。
 
ケイの寝室には、虹色のガラス窓があり、そこから差し込む夜の光で、キャリーとケイは、緑と赤のまじった、殆どサイケデリックな色に染まるのです。

ケイ(左)が、キャリーに泣きながら訴える


ロンとのオレンジ色の暖かさを求めていたキャリーが、ここでドラマ上の大きな決断をするのが、画面からも分かる構造になっています。
 




こうした、人々の対比、そしてその立場や心情を示すプリズムのような色とりどりの光によって、『天が許し給うすべて』は、文字通り「異色」の、美しいメロドラマになっています。




 
そして、これは人がどのように生きるかを求めるドラマでもあります。ロンがキャリーに、諭すように語り掛ける一言が、ドラマの主題を凝縮しています。

周りの人間に振り回されていたら、僕らは幸せになれない


幸せとは何なのか。それはきっと、周囲に振り回されずに、自分の居場所を見つけることなのでしょう。それはきっと、家です。

家(Home)は、屋敷(House)ではない。ロンと二人で小屋で過ごす方が、豪華な自分の屋敷に一人で居る時よりも、キャリーは幸せそうに見えます。
 
屋敷の孤独を一番象徴的に表すのは、白々しく家を出て行く子供たちに、テレビを贈られる場面でしょう。

その黒いテレビ画面のガラスに反射するキャリーの像をカメラは捉えます。黒々としたガラスの中に閉じ込められた精彩のない像は、キャリーの孤独を何よりも表しています。

家を出る息子(左)に
贈られたテレビのガラスに映る
キャリーの閉じ込められた姿


そんな彼女が、真に自分がいるべき場所(Home)を見つけ出そうとする過程が、この美しいドラマです。




 
どのように幸せをつかむのか、周りに流されずに自分ごととして生きるにはどうしたらいいか。それは、きっと多くの人にとっても大事な問いかけでしょう。機会がありましたら、彼女と彼のその探究の旅路を、是非観ていただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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