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ほのかな光の中の青春 -小説『感情教育』の魅力


【水曜日は文学の日】
 
 
私たちは生きているうちに、様々な歴史的事件に遭遇します。

しかし、それが事件かどうかは、渦中に居る時は分からない。何かの変化はその内部にいるとなかなか分からないものです。
 
フランスの小説家フロベールの『感情教育』は、そんな歴史の「感触」を味合わせてくれる名作小説です。




ギュスターヴ・フロベールは、1821年、フランスのルーアン生まれ。裕福な外科医の息子です。


最初は法学を学びつつ小説を書いていたものの、病気のため、ルーアン郊外に隠遁。父親が亡くなった後は、その遺産で暮らしながらひたすら小説を推敲する日々を続けます。
 
1856年、名作『ボヴァリー夫人』を出版。公序良俗違反で裁判沙汰にもなりますが、かえって有名になり、作家として地位を確立。
 
推敲をとにかく繰り返すため寡作であり、古代カルタゴを舞台にした異色の秀作『サランボー』に次ぐ実質長篇三作目が、1869年の『感情教育』です。





舞台は19世紀半ばのフランス。地方からパリにやってきた、歴史家志望の青年フレデリックは、その旅の中、美術商の妻のアルヌー夫人という美しい女性と出会います。
 
時は1848年のフランス二月革命前夜。アルヌー夫人への満たされない思いを持ちつつも、親友デローリエや愛人ロザネット等、様々な人々と出会いながら、革命の動乱に翻弄されていきます。




とにかく、一読すれば、見事に絡まった人間模様の鮮やかさに、感嘆するであろう、歴史小説の白眉。多くの優れた詳細な研究があります。
 
読み返して、改めて私が感じるのは、その「曖昧さ」の魅力です。




革命というのは、最高のドラマの題材の一つです。そこには、騒乱のスペクタクルがあります。正義と悪、革新と旧体制、個人と政治、愛と権力等、対立しながら、読者を高揚させるドラマがあります。
 
ディケンズの『二都物語』やユーゴ―の『レ・ミゼラブル』、アナトール・フランスの『神々は渇く』のように、結末の濃淡はあれど、そこにあるものは、一つの歴史的事件を巡って、エネルギッシュに生を燃やしていく人々の、燃える青春です。





しかし、『感情教育』では、そんなエネルギーがどんどん空転していきます。
 
主人公のフレデリックは、歴史家を目指していると口では言いながら、アルヌー夫人に恋をし、流行の革新派の集会に出て、何をするわけでもない。
 
田舎に戻って遺産を相続すれば、真っ先に夫人の元に駆け付けるものの、見事に空回りしていきます。

折しも政治に関わって、野心から選挙に出ようとするも、それもまたうまくいかない。エネルギーの使いどころを間違えている感があります。




では、そのエネルギーは何になっていくのか、というと、環境の変化です。
 
親友のデローリエによって、共和主義者のセネカルや、気のいい労働者階級のデュサルディエと出会い、美術商のアルヌーを介して、上流階級にも出入りし、ダンブルーズ夫人という裕福な女性のサロンに行けるようになったり。
 
よく考えると、いったい何者なのだろうと思う主人公なのですが、まさに何者でもないからこそ、彼を通して、当時のパリの世相が見えてくるのです。




フレデリックに限りません。この物語の人物たちは、皆、出自がかなり怪しく、しかも、どんどん自分の立場を変えていきます。
 
野心的なデローリエは、フレデリックと真逆に、政治や事業等あらゆることに手を付けては失敗します。ロザネットは、高級娼婦から最後は身を変え、セネカルは過激な共和主義者から驚くべき転身を遂げます。
 
その中でも曖昧なのは、デュサルディエでしょう。大変気のいい、教養は高くないけど、素直に革命と共和制を信じるデパート店員の青年で、フレデリックに対しても真の友情を持つ男。
 
しかし、工藤庸子の名著『フランス恋愛小説論』で書かれている通り、うぶそうにみえて、実はヴァトナという女性活動家と何か深い縁があったり、そのクライマックスがとてつもなく両義的な意味を持ったりと、かなり皮肉な眼で見られている人物でもあります。


オラース・ヴェルネ
『スフロ通りのバリケード』
二月革命の騒乱を描いた絵画


ここに出てくる人物たちは、皆、どこかいかがわしさを持ち、何か一つの信念を貫くことなく、ひたすら自分の階級や立ち位置を変えていきます。
 
そんな中で革命は、何かの「事件」ではなく、文字通りの「騒ぎ」にしか見えない。そこに意味があったのかもよく分からない事態になるのです。
 
しかし、歴史とはそういうものではないでしょうか。




私たちは教科書で歴史を学んでも、自分たちが生きた歴史は全く違う目で見ます。

例えば、冷戦終結や911の事件を実際に眼で見た人と、後から情報として知った人では、全くその感触が違う。

後者は、歴史という一つの物語を味わえるけど、前者が感じた「空気感」を完全に理解することはできません。




ギボンの『ローマ帝国衰亡史』から、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に至るまで、歴史文学というのは、事実の部分が強かろうと、フィクションの部分が強かろうと、「その歴史とはどんな意味があるのか」を、後世の眼で、作者が解説することで、人物たちが動き回る舞台を創りあげていました。
 
しかし、『感情教育』には、そんな解説はありません。
 
歴史の劇場はなく、ただ鬱屈とした日常や、時折訪れる騒乱の印象があるのみ。

だからこそ、私たちは二月革命の知識を学ぶのではなく、そこを生きた人々の、白黒つけられない、曖昧な変化に満ちた青春の空気を感じることができるのです。





そして、革命や金銭や権力だけではありません。何よりも、恋があります。

「それは一つの幻のようであった」から始まる冒頭の、船の上でアルヌー夫人と出会う場面の、輝くような鮮やかさ。

この光景こそが、曖昧な私たちの人生を彩る、歴史的な事件に負けない、ほのかな光にかたどられた大切な愛の風景なのでしょう。
 
それはまた、空回りをしても、幻であっても一度限りの人生と青春を賭ける価値のあるものなのでしょう。是非、その美しさを体験いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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