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神秘をかたどる -小説『フランケンシュタイン』を巡る随想


 
 
【水曜日は文学の日】
 

人類の創作の中には、元の作品世界を超えて、ある種の人類共通の象徴になった存在があります。神話の中から現実のイコンになったような存在。
 
「フランケンシュタイン」は、そんなイコンの中でも、かなり数奇な広まり方をした例でしょう。

イギリスの作家メアリー・シェリーの創作した小説『フランケンシュタイン』から出てきた怪物は、ポピュラー・カルチャーの中に深く浸透しています。





メアリー・シェリーは、1797年ロンドン生まれ。本名メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン。父親のウィリアム・ゴドウィンは有名な無政府主義者の政治評論家でした。

 

メアリー・シェリー


16歳頃、ロマン派の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーと出会い、駆け落ち。子供も産まれます。
 
1816年、夫や友人でロマン派の詩人、バイロンら5人でスイスのレマン湖畔で一緒に静養した折、バイロンの提案で、一人一人が怪奇譚(Ghost story)を書くことになります。
 
その時にメアリーが書いた小説が『フランケンシュタイン』であり、書き続けて二年後に出版されて評判になりました。




この作品のトリビア?として、よく語られるのが「フランケンシュタインとは怪物の名前ではなく、怪物を創った人間の名前である」ということでしょう。

そもそも、原作や後述の映画では、この怪物に名前はありません。

その名は、シェリー夫妻が旅行したドイツの古城「フランケンシュタイン城」からとられているとも言われています。




小説は、北極の探検家ウォルトンが姉に宛てた書簡体小説になっています。

ウォルトンが北極海で助けた男性ヴィクター・フランケンシュタイン。彼が語った驚くべき話を姉に伝えるのです。
 
ヴィクターは、ある時神のように理想の人間を創る実験に取り憑かれ、死体を継ぎ合わせて、怪物を創造します。
 
しかし、あまりにもおぞましい醜さに絶望。実験室を飛び出し、怪物も逃亡します。
 
やがて言語や知性を身に付けた怪物は、ヴィクターを追ってきます。ここから北極までに至る「創造主」と「創造物」の愛憎と因縁に満ちた過去が語られていくのです。




この小説の正式名称は『フランケンシュタイン ーあるいは現代のプロメテウス』です。

プロメテウスとは、ギリシア神話で、ゼウスに命じられて、人間の身体を創り、その後、火を盗んで人間に与えてゼウスに懲罰を受けた神です(ちなみにメアリーの夫パーシーもこの神話を題材に『鎖を解かれたプロメテウス』という傑作長編詩を残しています)。
 
『現代のプロメテウス』という副題は、神の如く新たな人間を創造して悲劇をもたらすヴィクターを上手く表しており、ヴィクター・フランケンシュタインの行状こそが、この作品のメインと考えてよいでしょう。




しかし、この作品についての現代のイメージは、少しずれています。
 
おそらくは、人造物であるゆえ、首にボルトが刺さって、皮膚を縫い合わせた継ぎ目がある、大柄で角刈りの男性。

無口で怪力で、感情を上手く表せなくて凶暴だけど、それゆえにどこか憎めないモンスター、というものではないでしょうか。
 
このイメージは、1931年のジェームズ・ホエールの映画『フランケンシュタイン』で主演した、ボリス・カーロフのイメージから来ています。
 
その特殊メイクは、映画ファンの間で話題になり、「フランケンシュタイン」が、つぎはぎの大柄な怪物をイメージするようにすら、なっています。(藤子不二雄Aの漫画『怪物くん』に出てくるそっくりキャラはまさに「フランケン」と名付けられていました)。


映画『フランケンシュタイン』(1931)
での、ボリス・カーロフ演じる怪物




しかしなぜこんなことが起きたのでしょう。
 
メアリーの原作小説では、映画と違い、怪物は言語を見事に習得し、ヴィクターを追い求め、挑発するストーカーのような存在になっています。


愛を呼び覚ますことができないのなら、恐怖をつくりだしてやる。特におまえ、おれをつくったおまえという敵には、決して消えることのない痛みを味あわせてやる

まもなく始まる旅では、おまえの苦しみがおれの永遠の憎しみを満足させてくれることになろう

おれの支配はまだ完成していない

命がけの勝負はまだ先だ。そのときが来るまでは、たっぷりとつらい時間を味わってもらうぞ

怪物がヴィクターにかける言葉をランダムに抜粋
小林章夫訳


怪物はヴィクターの合わせ鏡の存在であり、神の領域を侵犯するヴィクターもまた、怪物であると言えます。

そもそも語り手ウォルトンの職業も、社会的な安定を離れ、未踏の地を目指す探検家です。全員が、健全な社会にとって、モンスター的な側面がある。

社会の規範を外れた男たちの、同性愛的な、傷つけ合いと絆。

それは、無政府主義者だった父や、やはり無政府主義者で詩人の夫、パーシー・シェリーや、奔放なロマン派詩人バイロンといった人々を間近で見て、振り回されていたメアリー・シェリーの冷徹な物の見方の反映、というのはよく言われることです。

『フランケンシュタイン』の内表紙
当時の怪物のイメージが分かる




しかし、映画でのボリス・カーロフ演じる怪物は、そういうイメージは薄いです。

寧ろ、人間の傲慢さによって産み出された、愛する方法を知らない怪物。知能は高くなく、言葉は喋れない。どちらかと言えば、可哀想な愛玩動物のイメージにすりかわっています。

映画史に残る、湖畔で少女と花摘みをする場面は、その後の悲劇と合わせ、憐れな怪物「フランケンシュタイン」というイメージを作っています。


映画『フランケンシュタイン』
湖畔での少女とのひと時




ひょっとすると、メアリー・シェリーの偉大な発明とは、怪物の方でなく、「フランケンシュタインという名前そのもの」にあったのではないでしょうか。

フランク、というヨーロッパの基礎を築いた古代の王朝の名前に、シュタインというドイツ語で岩や石を表す単語がついて、古風で硬質な雰囲気がある(Frankenstein)。

と同時に、f、k、s、tと軽い子音を4つも含み、どこか浮遊感があり、鈍重ではない親しみやすさと、ファンタジーな質感も備える。

そのファンタジーな雰囲気が、人のモラルをはみ出した創造者から、人の業を背負った憐れな怪物へと、「フランケンシュタイン」という言葉を、横滑りさせていったのではないでしょうか。




その効果にメアリーは気づいていたか。おそらく気づいていなかったと思います。

作品がロンドンで舞台になった時に、怪物の名前がないと聞いて、喜んだという記録があります。

しかし、これが仮に、主人公の名前が、ヴィクター・フランクリンだったら、名前のない怪物が、フランクリンと呼ばれることもなかったし、ここまで後世に残ることはなかったでしょう。

彼女の当初の意図を離れて、言葉を喋る名前のない怪物が、言葉を喋れない、フランケンシュタインという名の怪物に変わっていく。

そこには、人間の罪深さを、怪物への「憐れみ」という形で目にしたいという、大衆の欲望があったようにも思えます。

その欲望の発露に「フランケンシュタイン」という謎めいた言葉はぴったりだったのではないでしょうか。




人が神の如き振る舞いで、生命を創造しようとして失敗し、破滅に至る、という神話は、ゴーレムやホムンクルス等、世界各地に残っています。

それは、人間への戒めであると同時に、人間の力を超えた神秘の世界に手を伸ばし、その力にほんのひと時、形を与える試みであると言えます。

メアリー・シェリーも、そんな神秘をかたどることができた偉大な作家の一人です。

彼女が使った呪文は「フランケンシュタイン」という言葉。それによって、人々の欲望が掻き立てられ、様々な怪物が生まれる。それが、彼女の当初の意図を超えたとしても。

それはつまり、人類に火を与え、恐らく予想できなかったであろうその後の発展の契機を創った、プロメテウスのようでもあります。

メアリー・シェリーもまた、神秘に形を与えるあらゆる芸術家と同様、「現代のプロメテウス」であると言えるのかもしれません。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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