【創作】ミケランジェロの最後の素描【幻影堂書店にて】
※これまでの『幻影堂書店にて』
光一は、呆然と男を見つめていた。男は光一に向き直って微笑んだ。
「申し遅れましたね。私は、ディーター・カストルプと申します。以後お見知りおきを」
「あなたも。。。ここのお店の人なのですか?」
光一は、からからに乾いた喉から、声を振り絞る。
「いいえ、私は仕入れ商でしてね。様々な時空の「作品」を手に入れて、お店に売るだけ。この『幻影堂書店』も、お得意様の一つですよ」
「それで、今日は何を持って来てくれましたか、カストルプさん」
ノアは帳面に万年筆で書き込みながら、そっけなく尋ねる。その声にはどこか冷たい、棘のようなものがあるように、光一には感じられた。
カストルプは、マントを脱いで、机の前に椅子に掛けると、立ったまま、右手をパッと広げた。
白い手袋の上で、光の粒が集まってくると、薄い冊子や、厚い本が5冊、そして、花模様の白いカップが現れた。
「面白いものがまた手に入りましたよ。こちらはあなたへの贈り物。宋の時代の貴重な磁器ですよ。美しいでしょう。お茶のお供にどうぞ」
「それはどうも、カストルプさん」
ノアは帳面から顔をあげずに、さっと左手を振る。本がノアの手元に、茶器が奥のガラス棚の方にふわふわ浮かんで、収まった。
カストルプは、そんなノアの態度には馴れているのか、饒舌に語る。
「今回の掘り出し物はですね、ミケランジェロが遺した最期のスケッチを添えた詩です。これを書いた二時間後に亡くなっていますからね。その保証付きです。これはなかなか、お値が張りますよ」
「ミケランジェロ? 『最後の審判』とかのですか?」
光一は、興味を惹かれて、口を挟んだ。どこか、カストルプには、話しかけやすい雰囲気を感じていた。
カストルプは、穏やかな笑顔で頷いた。
「そうです、彼は詩人でもあったんですよ」
ミケランジェロ・ブオナロッティは、1475年、当時のフィレンツェ共和国トスカーナ生まれ。地元の工房に入ると、14歳で一人前と認められ、当時のフィレンツェの権力者ロレンツォ・デ・メディチの庇護を受けて、次々と傑作を創り出す。
メディチの死後、ローマに移り、『ピエタ』、『ダヴィデ像』といった彫刻の傑作、システィーナ礼拝堂の天井画や、『最後の審判』といった傑作を旺盛に創り、生前から最高の巨匠と認められていた。
「彼は実はいくつかソネットも残しています。彼の最後の詩は、もっと簡素なものですけどね。ご覧になりますか」
カストルプが指揮棒を振るように人差し指を振ると、ノアが開いていた冊子が飛んできた。それを開くと、色褪せた紙が現れる。
俯き加減に微笑んだ女性の簡素なスケッチに、詩が添えられていた。
光一はその詩に添えられた、美しいスケッチに心を打たれた。
「このあなたというのは、誰なんですか?」
「それが、よく分からないんですよ。
ミケランジェロは非常に孤独を好む性格で、弟子もいません。でも、いくつか男性に宛てた詩を遺しているので、同性愛的な傾向があったのではないかと言われていますね。
もう一つ、彼はヴィットリア・コロンナという貴族の未亡人と親しくなって、文通しています。
彼女が亡くなる1547年まで交流はあったけれど、何せミケランジェロが亡くなったのが、1564年、88歳の時ですからね。そこら辺、記憶が混同されているのかもしれませんね」
「この絵は女性なのか、男性なのか分かりませんね。でも、穏やかで、全てを包んでくれるような。。。」
「そうですね。長生きしたことがあって、彼の作風もかなり変わっています。初期は、優美な均整の取れた作風、それが、俗に筋骨隆々と言われる、リアルな肉付きの躍動的な絵画、晩年はマニエリスティックなねじれた身体もある、謎めいた作風になる。
でも、このデッサンは、ライバルのダ・ヴィンチを思わせる、初期の理想像に近づいていますね。巨匠の最後というものはそういうものかもしれない。今までの軌跡が消えて、その人の本質だけが残るんですよ」
「それが、この詩の「あなた」への呼びかけなのかも?」
「ええ、そう考えてもいいかもしれませんね。何かの理想のような、その人の核のようなものだけが最後の記憶となる。それは、ミケランジェロにとっては、親密な何かの記憶だった。その相手が誰であれね」
「誰であれ分からないので、お値段はその分引かせてもらいますね」
ノアはそう口を挟むと、書いていた帳面を破って、その紙片をカストルプの前に突き出した。その紙片に引き寄せられるように、棚から本が二冊、レコードが一枚やってきて、紙片の前に揃えられる。
それが、持ってきた本の「対価」なのだろうと光一は思った。
カストルプは、大げさに手を広げて笑った。
「おやおや、勘弁してくださいよ。結構これは手に入れるのに苦労したんですよ。持ち主が、古城の中に隠していたんです。礼拝室にかかっていた絵画の裏に、秘密の抜け道がありましてね。聞きたいですか?」
「興味はございません。こちらでどうぞお引き取りを」
ノアがそう言った瞬間、ミケランジェロのスケッチを挟んだ冊子が空中で輝きだした。
その溢れる光の中から茶色い革靴が浮かぶ。
閃光が瞬き、光一が目を開けると、革靴の模様が入った金色のしおりが、カウンターにあった。
「しおりが。。。二つ目の『記憶の破片』」
光一が呟くと、カストルプは、そのしおりと壁に飾ってある羽ペン模様の金のしおり、そして光一の顔を見比べた。
「なるほど、そういうことですか」
カストルプは、ノアを見つめると微笑んだ。
「また試すのですね」
「あなたには関係ないことです」
「そうであったら楽ですがね」
カストルプはそう言うと、マントを羽織り、さっと指を振る。カウンターの上の本が引き寄せられ、マントの裏側に消えた。
カストルプはシルクハットを被ると、光一が入ってきたドアの方に向かう。
「近いうちにまた来ますよ。必要でしょうからね」
光一は、カストルプが去ったドアを呆然と見つめた。
「あの人は?」
ノアは、どこか痛みを抑えるような表情になる。赤い左眼がどろっと輝いている。そして、青い右眼がかつてないほど薄く澄んでいることに、光一は気づく。ノアは口を開いて囁いた。
「これから、君にも関係してくる人。この世界は私たち二人だけで出来ているわけじゃないからね。
その存在が何なのか、その意味が君にも分かる日が来る。だから、その日までは、また、このお店で会いましょう」
(続)
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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