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「エレファントカシマシ とスピッツの研究」 (第二回)

「エレファントカシマシ 」との出会い

 私は小学生の時に、スピッツの「チェリー」と出会い、すっかりスピッツに感化されてしまった。「ロビンソン」なんて「誰なのか」「何処なのか」「何のことなのか」知るはずもないのに、「わかる」気にさえなった。
 スピッツはどんなことでも私に「わからせてくれる」存在となっていた。それも、とても優しい歌で、まるで手抜きのない演奏で、まったく知らない世界を。

 ボーカルの草野マサムネ氏が生み出す詞の世界に少しでも触れていたいと思い、雑誌のインタビューの言葉は「神のお告げ」のように私の心に響いていた。
 そんな草野氏がたびたび名前を挙げているバンドがいた。

「正座して聴いてますよ、エレカシは」
(『スピッツ』1998年7月31日二版発行 渋谷陽一 株式会社ロッキング・オン P15)

 「草野さんが正座をして聴くって、相当なバンドだ!」スピッツが畏敬の念で向き合っているバンドがいたのだ。

バンド名は「エレファントカシマシ 」といった。

 このインタビューは「91年4月号」のものだが、私がこうして知ったのはスピッツが「チェリー」を出した後の事で、エレファントカシマシ は「夢のかけら」というシングル曲をリリースしていた。
 私は中学生になっていた。週末の深夜のヒットチャート番組を見るのが楽しみであった。ヒットチャートとはいっても、私が気になっていたのは、「誰が1位なのか」よりも「30位〜20位あたりに位置しているバンドマンの曲」であった。無論、エレファントカシマシ もそこにいた。「夢のかけら」のサビがほんの少しだけ流れる。それを聴くだけでその週は満足であった。

 やはりCDが欲しくなり、シングル「夢のかけら」を買った。スピッツの控えめな優しい曲調とは違って、ボーカルが非常に男らしく感じた。カップリングの「ココロのままに」はスピッツには到底歌えなさそうな曲だと思った。
 ボーカルは歌詞とは別に「ホッ!」とか「Oh Yeah!」といった間投詞の様なものが随所に入ってくる。スピッツには似合わない手法である。
 しかし、そのノスタルジックな主旋律を男連中で無骨に斉一性を持って奏でるスタンスにはスピッツにはない美しさがあった。タイプは違う(というよりも対極的)美意識だが両バンドとも鋭いメロディメイカーだと思った。

 私はエレファントカシマシ を好きになれそうだと思った。アルバム『明日に向かって走れ』や『愛と夢』もよく聴いた。「風に吹かれて」「恋人よ」「ヒトコイシクテ、アイヲモトメテ」のイントロの実直さ。自分の心の中にも元々持ってたメロディを奮い起こされた様なシンプルかつロマンチックなフレーズ。

 この時、エレファントカシマシ から感じた「実直さ」と、ある種の「生真面目さ」は、以後遡って聴き始めた初期のEPIC時代の作品においても、そして現在の作品に至るまで、作風は広大にたゆたいながらも一貫してハッキリと感じとることができる。
 これから私がエレファントカシマシ と比較して観ていこうと思う詩人ゲオルゲは、近代抒情詩人を語る上で欠くことのできない大詩人である、殊にドイツにとっては。
 お隣フランスではボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ、ヴァレリー、と大詩人に名を連ねる詩人が華々しく詩世界を展開させていく中で、ドイツの抒情詩とはこうだ!、と一発ドーン!と金字塔を打ち立てた人物である。
 強く「言葉の力(言霊)」を信じた詩人であった。

 詩人ゲオルゲの作品もやはり、時期により作品のモチーフは広大にたゆたいながら、一貫してはっきりと感じることができる「貞潔さ」というものがある。

 この両者に共通して言えるのは、己の中に貫いている「生真面目さ」「貞潔さ」を頑なに持ったまま、それらを通して世の中を観るアティテュードを崩さないところである。


 実際に今、社会を生きていると「無用の長物」のようにあしらわれる「生真面目さ」というものをエレファントカシマシ は頑なに耐えながら固辞している。特にEPIC 時代の作品には如実に現れるのである。ミュージシャンの音楽芸術を鑑賞するというよりも、もどかしさを抱えて鬱屈としてうだつの上がらない1人の切羽詰まった日本の男の生活をみせられて、お前もそうだろ!と説教を説かれている気分になる。草野マサムネ氏が正座をして聴いている、というコメントの意を解することはそう難しくはなかった。

 しかし、この初期のエレファントカシマシ の「耐え忍ぶ詞」に耐えるのには、私自身の鍛錬を要した。
 スピッツの「優しさ」「控えめさ」「詞の奇抜さ」が当時の私には芸術的にはより好ましかったが、それでも私は「耐える事」を選んだ。


「エレファントカシマシ とゲオルゲ」「スピッツとリルケ」

 同じ時代を生きる芸術家には、同じ課題がのしかかっていると云う。1991年にデビューしたスピッツと、その3年先にデビューしたエレファントカシマシ は同じ時代のバンドマンである。そして、詩人リルケは1875年生まれ、13年前にゲオルゲが生まれている。年は離れているが、同じドイツ語圏で19世紀から20世紀へと激動的にドイツ世界が移り変わった「世紀末転換期」を代表する詩人である。

 『ゲオルゲとリルケの研究』の著者、手塚富雄先生はこの両詩人について、ざっと第一印象をつかむために以下のような案内をしてくださっている。

この二人を並置させずにおかぬことがある。それはまず、一見したところこの二人は、まるで対蹠的というべきありかたと行きかたをしていて、それぞれ独自の詩世界をたてたことである。ごく大づかみに言って、ゲオルゲのそれは男性的で剛毅、リルケのそれは女性的で柔軟で、望むならなおいくらでもこれに類した記号づけをすることができよう。
(「ゲオルゲとリルケの研究」昭和35年11月10日 第一刷発行 手塚富雄著 株式会社岩波書店 P4~5 )

 この指摘は、そのままエレファントカシマシ とスピッツの両バンドに対応させても、よく当てはまっているように思う。事実、エレファントカシマシ には「男」というキーワードがたびたび出てくる。逆にスピッツはアルバムジャケットには「女性」を象徴的に載せたりする。楽曲を聴いてもなお、対照的に感じ取れる違いが見つけられる。


 大づかみにそれぞれのバンド観を感じとったならば、ここからよりこれらの詩人、バンドマンの詩情も深部を掘り下げてみようと思う。

つづく








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