デザイナーについて考えてみる。
今回は山中俊治著作の「カーボン・アスリート 美しい義足に描く夢」を読んで心に刺さったところをまとめた。
デザイナーとは
一般的にデザイナーは、色や形を考える専門家だと思われている。実際、二十世紀の前半には、まったくもって色や形を考える人だったのだが、今日では、使い勝手や取り回しのよさ、わかりやすさなどを設計するのもプロダクトデザイナーの仕事であり、合理的構造やつくりやすさ、コストバランスなども、デザイナーが貴任をもつようになってきた。
そして、かっこよさや心地よさ、コストやつくりやすさ、使い勝手や機能などの総合的なバランスをとることまでが、デザイナーの重要な仕事となってきている。
機能と美しさのバランス
なかでも昔から変わらない重要な課題は、機能と美しさのバランスである。機能と美しさが一体になった理想的な状態をあらわすのにしばしば「機能美」という言葉が使われる。
生物のデザインは機能美のお手本であるということがよくいわれる。たとえば花は、多くの人が美しいと思うものの代表であるが、その形や色のひとつひとつに理由がある。
花は、植物が子孫を残し、進化をつづけていくための重要な器官であり、その色や香りも、受粉を手伝ってくれる昆虫や小動物を呼び寄せる役割をになう。繊細なおしべは、花粉を昆虫につけるために、取れやすい状態にして高々と差しだす。
花のあざやかな色も、派手な形も、本来は昆虫に向けられたもので、人をひきつけるためではないが、私たちはそれを「美しい」と思う。そこには、とても合理的につくられたものが結果的に美しく見えるという美の原理が存在するのではないか。美は必ずしも機能によって説明されるものではないが、少なくとも私たちは、整合性のとれたものに対して美しいと感じる直感をもっている。
二十世紀初頭の建築家やプロダクトデザイナーは、この美の原理をデザインの理想と考え、「機能美」と名付けた。
機能美と便利さ
しかし、実際に私たちの身の回りにあるものをデザインしようとすると、生物のように理想的な機能美にいたることは容易ではない。生きものは、それ自身が生きることにただ忠実であるから美しいが、人にとって便利なものではない。
私たちは人の役に立つように、さまざまな動植物に対して品種改良を重ねてきた。
その結果をみると、まるまると太った食用家畜の姿からは、原種の野生動物がもっていた躍動美はすっかり失われてしまっている。不自然に大きな実をつける植物は、必ずしも美しい立ち姿にはならない。一方で、観賞用の品種改良を経て、きわめてひ弱になってしまった動植物も少なくない。
生殖能力のない観賞用の生き物たちは、明らかに生物本来の機能を犠牲にして美しくつくられている。このように「人の都合」と美しさは必ずしも両立しない。それは、工業製品においても同じである。便利な工業製品をつくることや、コストを下げることは人にとってとても有益なことだが、それだけで工業製品が美しくなるわけではないし、反対に美しくすることによって便利さを損なう場合も少なくない。
そこにデザイナーの苦悩がある。
参考文献
山中 俊治、「カーボン・アスリート 美しい義足に描く夢」、2012
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