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【読解】 磯崎Ⅲ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

最初の断片の磯崎Ⅰで語られたことが、より詳しく紹介されます。

第一段落

①建築においては、古典主義がそのままアントロポモルフィズムであった。ここでは、建築的形式を貫くカノンは、人体の模造とそこから抽出された比例体系に支配されていた。この古典主義は一八世紀の中期まではほぼ順調な展開を見せたが、それはラテン語の西欧社会ではたしていた役割にも比較できるほどの決定的な重要度をもっていた。

磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」、『Anyone〈増補改訂版〉 建築をめぐる思考と討議の場』、NTT出版、1997年、p.69。段落番号①から⑤は筆者による、以下同様。

人体が建築の基本である「古典主義は一八世紀の中期まではほぼ順調な展開を見せた」のですが、それ以降が問題となります。建築における古典主義的デザインはラテン語のような、西欧社会のルールでした。

第二段落

②この古典主義の展開に危機がおとずれたとき、廃墟、原始の小屋、ピクチャレスク、崇高性、考古学等が導入された。結果として、古典主義は複数の建築的言語のひとつの位置におとしめられ、あげくに相対化されることになった。とは言っても、古典主義=アントロポモルフィズムの図式が解消したことにはならない。断片化した古典主義言語でさえ相変わらずアントロポモルフィックな像(思考・方法)をひきずっていた。

同書、p.69。

18世紀の後半、理性に基づく科学的な考え方の影響が広がりました。そして建物は古典建築のようにデザインしなければならない、という意味での古典主義は絶対的なルールではなく、一つの立場になったのです。「とは言っても、古典主義=アントロポモルフィズムの図式が解消したことにはならない。」つまり建物の見た目は変わったとしても、その考え方が人体に基づいているという意味では、古典主義のままでした。

第三段落

③ル・コルビュジエの《モデュロール》をその一例として挙げえよう。彼はギリシア的カノンとしての黄金分割をフィボナッチ数列と結びつけ、その数字(スケール)上の根拠に人体の寸法を用いている。ダ・ヴィンチの図式の再生である。さらに、コーリン・ロウの《理想的ヴィラの数学》は、ル・コルビュジエの機械の住宅とパッラディオのヴィッラの空間形式に相同性がみられることを証明している。古典主義を貫くカノンが姿を変えながら残存しているのである。

同上。

例に挙げられるのは20世紀を代表する建築家、ル・コルビュジエです。彼もまた、人体と数学を建築の基本として考えていました。人間と理性はthe One だと考えられていたのです。

第四段落

④この経過は歴史的に形成された古典主義=アントロポモルフィズムを様式スタイル形式フォルムのうえで分離したり廃棄したとしても、一向に問題の解決に結びつかぬことを示している。神が自らの似姿として人間をつくり、人間がその似姿として主体をつくり、主体があらためて自らの似姿として自我を生み出すといった求心化の引力からのがれる仕組みを組み立てることしかあるまい。

同上。

ルネサンスの建物やコルビュジエの建物は「様式スタイル形式フォルムのうえで」はまったく違うように見えるのですが、ここではそれらに共通する考え方を批判しています。

第五段落

⑤そこでのデミウルゴスは、たとえば、······何をしでかすか予測できない、いい加減なことをする、たわけている、暴れる、壊す、不気味である、闇に沈む、······こんな神話的な像として現われる。

同上。

そのような中心のthe One から逃げようとするとき、こんなデミウルゴスの神話的な像がモチーフになるのかもしれません。

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