Re-ruined Arata

東大建築4年。2002年生まれ。卒論のテーマは磯崎新。

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東大建築4年。2002年生まれ。卒論のテーマは磯崎新。

最近の記事

【読解】 磯崎Ⅲ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

最初の断片の磯崎Ⅰで語られたことが、より詳しく紹介されます。 第一段落人体が建築の基本である「古典主義は一八世紀の中期まではほぼ順調な展開を見せた」のですが、それ以降が問題となります。建築における古典主義的デザインはラテン語のような、西欧社会のルールでした。 第二段落18世紀の後半、理性に基づく科学的な考え方の影響が広がりました。そして建物は古典建築のようにデザインしなければならない、という意味での古典主義は絶対的なルールではなく、一つの立場になったのです。「とは言っても

    • 【読解】 浅田Ⅱ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

      プラトンが初めて書いたデミウルゴスは、グノーシス主義という古代宗教では独自のキャラクターとなって再登場します。 第一段落 この断片ではグノーシス主義のデミウルゴスが扱われます。「仮晶」とは註によると「崩壊した結晶体が残した空洞に別の結晶物質が入り込んだときにできる非本来的な形の結晶」らしいのです。 なぜわざわざこんな註を付けたのか? なんとなく察することができます。「空洞」に別の何かが入り込み、あるべき本来の姿ではなくなったものが示唆されているのではないでしょうか。グ

      • 【読解】 磯崎-Ⅱ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

        明らかに、この断片のキーワードは《間》(Ma)です。 第一段落「《間》(Ma)」という言葉は何を指しているのでしょうか? 《間》を知るには「感知される存在よりも、それらの周辺または中間に介在する空虚を注視することが要請され」ます。 ここで突然ですが、剣道で対峙する二人を思い浮かべてみましょう。その竹刀を構えている二人は「存在」ですが、もちろん《間》ではありません。その二人の「中間」の状況は、例えば次の一瞬の打突で、変化するかもしれません。その可能性を含む「空虚」が《間》

        • 【読解】 浅田-Ⅰ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

          磯崎-Ⅰにつづいて、浅田は別の視点からデミウルゴスについて語り始めます。 第一段落まずデミウルゴスという単語が書物のなかで初めて使われたのは『ティマイオス』というプラトンの本です。オリジナルは古代ギリシアに書かれたものなので、非常に古いです。そこでティマイオスという人の話が載せられています。ここでは彼は当時一番頭の良い人で、何でも知っていたのだと思っていればよいでしょう。 しかし重要なのは、プラトンがこれを書いたのが、遠くに旅行に行った後だったということです。そして本の内

        【読解】 磯崎Ⅲ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

          【読解】 磯崎-Ⅰ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

          この記事の題名にもなっているテクスト、磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」は磯崎-Ⅰ、浅田-Ⅰから磯崎-Ⅴ、浅田-Ⅴの合計10の断片で構成されています。これはまず1991年の『批評空間』第1期No.2に、その後1997年にNTT出版の『Anyone〈増補改訂版〉 建築をめぐる思考と討議の場』という書籍のpp.64-78に収められました。ぼくの記述は後者に依拠しています。 と大学の授業のガイダンスみたいなことを書いてしまいました。一番やる気のある初回

          【読解】 磯崎-Ⅰ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

          磯崎新を読む

          大学の卒論で磯崎新という建築家(?)を扱うことにしました。 ここには、ぼくが彼のテクストを読んで、理解したことを載せていきます。 卒論が完成するまでの足跡になればいいなと思っています。

          磯崎新を読む