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【読解】 浅田-Ⅰ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」
磯崎-Ⅰにつづいて、浅田は別の視点からデミウルゴスについて語り始めます。
第一段落
①デミウルゴスというアレゴリーは、言うまでもなく、われわれをまずはプラトンの『ティマイオス』のほうへと導く——哲学者が、晩年、三度目のシチリア旅行のあとに書いたといわれる謎めいたテクスト、エジプトやアトランティスといった非ヨーロッパの影をとりわけ強く帯びたテクストに。とはいえ、それを精密に読み直す余裕のないいま、われわれはいくつかの興味深いポイントを取り出すにとどめよう。
まずデミウルゴスという単語が書物のなかで初めて使われたのは『ティマイオス』というプラトンの本です。オリジナルは古代ギリシアに書かれたものなので、非常に古いです。そこでティマイオスという人の話が載せられています。ここでは彼は当時一番頭の良い人で、何でも知っていたのだと思っていればよいでしょう。
しかし重要なのは、プラトンがこれを書いたのが、遠くに旅行に行った後だったということです。そして本の内容にも、ギリシアっぽくない「エジプトやアトランティスといった非ヨーロッパの影をとりわけ強く帯びた」ものが含まれてしまったのです。
第二段落
②まず興味をひくのは、ティマイオスの宇宙論のなかに、アリストテレスの観点、つまり完成された形而上学の観点からするとリダンダントと見えるであろう要素が含まれていることだ。
浅田は「完成された形而上学の観点からするとリダンダント」なものを指摘しています。リダンダントとは、余分な、という意味です。どういうことでしょうか?
形而上学という言葉はなかなか難しいのですが、必要最低限の何かで世界を説明(記述)しようとする試みだと思っておきましょう。また、ここで論じられるような世界や宇宙は、世界旅行や宇宙旅行のような具体的に行けるような世界や宇宙ではなく、とにかく「すべて」のことです。
そして「ティマイオスの宇宙論」は後のアリストテレスから見ると、必要最低限の説明ではありません。
その余分なものとは、何なのでしょうか?
第三段落
③ティマイオスは、モデルとしての永遠な存在とそれに従う絶え間ない生成を、つまりアリストテレスで言えば形相と質料を導入したあと、そのモデルに基づいて実際に世界を構築する造物主としてのデミウルゴスを導入する〔27 d — 29 b〕。アリストテレスが後に示したように形相と質料だけで世界を記述できるのであってみれば、デミウルゴスはいったい何のために必要なのか。
アリストテレスは「形相と質料だけで世界を記述できる」と主張しました。形相というのはモデルで、質料はそのモデルのコピーなのです。そして私たちにはモデルは見えず、コピーされたものは見えるのですが、それらコピーはある一つのモデルから創られているらしいのです。
ティマイオスも一応、似たようなことを言っています。彼も「モデルとしての永遠な存在とそれに従う絶え間ない生成」という前提を主張します。しかしアリストテレスと違うのは「そのモデルに基づいて実際に世界を構築する造物主としてのデミウルゴスを導入する」点です。
しかしティマイオスにもアリストテレスにも共通する前提を踏まえると、デミウルゴスはただ上からの指示に従ってつくる者に見えます。これは本当に世界を必要最低限で記述するために必要なのでしょうか?
これがこの段落の問題提起です。
第四段落
④さらに後のほうで[......]もうひとつの奇妙な三組が現れる。それまではモデルとしての存在とそれをもとにして生じる生成だけを考えてきたけれども、そのなかで生成が生じる場所(コーラ)をも考えなければならないというのだ。〔48 e — 49 a、50 d〕。いったいデミウルゴスはどこへいってしまったのか。もしかするとコーラはデミウルゴスの代替物として機能しているのかもしれない。だがそもそも、存在が理性の対象であり、生成が感覚の対象であるのに対し、「一種のまがいの推理」〔50 b〕によってしかとらえられないとティマイオスのいうコーラ、このどこかフィクショナルなコーラとはいった何か。それはアトミストたちのいう空虚(ケノン)でもなければ、アリストテレスのいう充満した場所(トポス)でもなく、[......]空虚と存在の中間にあるこの謎の空間は、豊かな経験を可能にする文脈として機能しながらもまさにそのことによって人を歴史の重みで縛りつける場所(トポス)を解体するための、しかも均質な空虚(ケノン)のなかに呑み込まれずにすむための、アンチトポス的あるいはアトピー的な足場となるかもしれない。だが、いかにしてか。
さらにもう一つ、必要なのかよくわからない概念をティマイオスは語っています。
それが「そのなかで生成が生じる場所(コーラ)」です。
デミウルゴスとコーラは、どちらも説明に最低限必要なのかわからないし、それが同じものなのか違うものなのかもはっきりしません。
しかもコーラは、ティマイオスによれば「存在が理性の対象であり、生成が感覚の対象であるのに対し、「一種のまがいの推理」〔50 b〕によってしかとらえられない」らしいのです。ここもわかりにくいと思います。
まず見ればわかる、今起きていることは感覚の対象です。《生成》とはそのような各現象のことだと思ってよいでしょう。実験科学は、起きていることを確認する、つまり見たことを信じるところからスタートするのでこちらです。起きていることの原因は一応わかります。
でもそれが「なぜそうでなければならないのか」という問いの答えが《存在》だとしましょう。これは実験回数を重ねてもわかりません。こうした哲学的な理由を原因と区別するなら、哲学的な理由は見たことを信じてもわからないため、理性の対象です。
ではコーラとはなにか。もしそれが《生成》側なら生成していない空白の部分だし、《存在》側なら必然のものです。しかし、そのどちらでもないとティマイオスは言うらしいのです。
「空虚と存在の中間にあるこの謎の空間」はどちらでもないことで、《そうでなければならない》から逃れると同時に、《何もない》からも逃れるような、周囲とは異なる「アンチトポス的あるいはアトピー的な足場となるかもしれない」のです。
しかしどうやって、その二つから同時に逃げるのでしょうか?
第五段落
⑤先に進もう。コーラは、内に含んだ諸要素の運動によってゆさぶられ、またそれらをゆさぶり返して、ふるいのように機能するという〔52 e — 53 a〕。それがトポスのもつ創造機能——デミウルゴスとしての?——なのだ。空虚と存在の中間にあってリズミカルに振動するコーラ。唐突な連想が許されるとしたら、それは日本でいう《間》(Ma)に共通する点をもっているのではないか。
「空虚と存在の中間にあってリズミカルに振動するコーラ」は「日本でいう《間》(Ma)に共通する点をもっている」とは、どういうことでしょうか。
この問いが重要です。
第六段落
⑥しかも、われわれはコーラのなかで運動する諸要素がプラトン立体であるということに注目しなければならない(火=正四面体、気=正八面体、水=正二十面体、土=正六面体)。それら自体が三角形という要素から構成されているのだから、それらの要素は、始原(アルケー)〔53 d〕であるにもかかわらず、分割可能かつ相互変換可能である。[......]ともあれ、コーラのなかでプラトン立体=文字が揺り動かされ異種交配されるというヴィジョンは、デミウルゴスとしての建築家にとって何を語っているのだろうか。
さらにもう一つ、問いが続きます。コーラで起きる生成の「始まり」とされている立体は「分割可能かつ相互変換可能」なのです。なぜならそれらの立体は、合同な正三角形で構成されているからです。
つまり何が言いたいのでしょうか?
ここで重要なのは「始原」というthe One が、そもそも「分割可能かつ相互変換可能」であるというヴィジョンです。
これが「デミウルゴスとしての建築家」に何を語るのでしょうか?
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