【読解】 磯崎-Ⅱ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」
明らかに、この断片のキーワードは《間》(Ma)です。
第一段落
「《間》(Ma)」という言葉は何を指しているのでしょうか?
《間》を知るには「感知される存在よりも、それらの周辺または中間に介在する空虚を注視することが要請され」ます。
ここで突然ですが、剣道で対峙する二人を思い浮かべてみましょう。その竹刀を構えている二人は「存在」ですが、もちろん《間》ではありません。その二人の「中間」の状況は、例えば次の一瞬の打突で、変化するかもしれません。その可能性を含む「空虚」が《間》なのです。
「その見えないものの感知には気の呼吸を介して肉体化する手段」のひとつとして、まさに剣道のような武道があります。その武道の基本は呼吸であり、それによって気を身体に沁み込ませるのだ、と理解しておきましょう。
第二段落
「《間》にかかわる芸術表現は、いずれも固定された主体の位置を否定し、明滅する状態に」つまりthe One があるのか(明)、ないのか(滅)の決定の両側から脱出している状態をつくりだしているのです。
第三段落
さらに《間》は、いくつもの熟語「のいずれでもある」というのです。これは《間》という語そのものが、一つの意味に固定されないことを示しています。そのとき、この語はあたかも決定の保留されたanyone に似ています。これを《間》という語その自体がスペースになっているようだ、と「J・デリダの”espacement=becoming space”」という言葉を引用して、表現します。
第四段落
そしてデミウルゴスと《間》の関係を語り始めます。ここは難しいです。
「《間》がままならぬものとしてかかえこんでいる場所(コーラ)」つまり今あるものの間には、何かが産まれ出てくるかもしれないコーラがあり、そこで「デミウルゴスとしての建築家」は何かに従事しています。それは「空間生成(becoming space)」らしいのですが、これはまだ判然としません。
しかし少なくとも言えるのは、そこで産まれ出てくる「形象は一定せず、決定的なものから常にはなれ(off, away)させられていく」ということです。それは決定的でないため、the One のように一つの言葉で特定することはできないのですが、続く英単語たちの「すべての言葉といったおもむきを呈する」のです。これはanyone、デミウルゴス、《間》という名にも共通する性質ですね。
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