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【読解】 浅田Ⅱ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」

プラトンが初めて書いたデミウルゴスは、グノーシス主義という古代宗教では独自のキャラクターとなって再登場します。

第一段落

①デミウルゴスについて語る者はプラトンの『ティマイオス』だけにとどまっているわけにはいかない。プラトンを創造的に誤読したグノーシス主義のほうに向かわなければならないのだ——崩壊しつつあるギリシア思想と再生しつつある東方思想からなる仮晶(原註一)とハンス・ヨナスの呼んだグノーシス主義に。

原註一——崩壊した結晶体が残した空洞に別の結晶物質が入り込んだときにできる非本来的な形の結晶。

磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」、『Anyone〈増補改訂版〉 建築をめぐる思考と討議の場』、NTT出版、1997年、p.67。段落番号①から⑤は筆者による、以下同様。


この断片ではグノーシス主義のデミウルゴスが扱われます。「仮晶」とは註によると「崩壊した結晶体が残した空洞に別の結晶物質が入り込んだときにできる非本来的な形の結晶」らしいのです。

なぜわざわざこんな註を付けたのか?

なんとなく察することができます。「空洞」に別の何かが入り込み、あるべき本来の姿ではなくなったものが示唆されているのではないでしょうか。グノーシス主義とはこのような経緯で誕生したのだと理解しておくにとどめましょう。

詳しくはハンス・ヨナスは『グノーシスの宗教』という本に書かれています。

第二段落

②グノーシス主義において、デミウルゴスはもはや神でも神の代理人でもない。それは神の他者、、、、であり、自分勝手な誤りに基づいて宇宙を創造してしまうのだ。人間は自らにとって疎遠な宇宙のなかに投げ込まれているにすぎない。ここには、コスモスの、したがってまたマクロコスモスとミクロコスモスのシンボリックな照応の、徹底的な否定がある。その否定を通じてはじめて、デミウルゴスはリダンダントな虚構であることをやめ、一者(the One)の他者である身元のはっきりしない誰か(anyone)として独自の活動を始めるのである。マクロコスモスとミクロコスモスの照応はマクロポリスとミクロポリスの照応というローマ帝国主義のイデオロギーと不可分であってみれば、グノーシス主義によるその否定が政治的闘争の開始であることは付言するまでもない。

同書、pp.67-68。

グノーシス主義でもデミウルゴスはつくり手なのですが、『ティマイオス』のデミウルゴスとは違います。『ティマイオス』では永遠の存在であるモデルthe Oneに従って、ものづくりをしていたのですが、グノーシス主義では彼は好き勝手につくっているのです。そして人間は神ではなく、そのデミウルゴスが勝手に創造した世界に閉じ込められている、と考えられています。

マクロコスモスとミクロコスモスのシンボリックな照応の、徹底的な否定」とはつまり、マクロコスモスである神the One の写しであるミクロコスモスの人間が、実はthe One でない誰かanyoneに支配されていると主張することだと考えてよいでしょう。

そしてこれは当時の「帝国主義」と闘おうとする思想であったとされています。この言葉の選び方から「マクロポリスとミクロポリス」を宗主国と植民地と読み換えてもよいでしょう。これはけっして古代だけの話ではありません。そこでは近代が示唆されているはずです。

第三段落

③もちろんグノーシス主義において、デミウルゴスの創造した宇宙は人間にとって空しい牢獄にすぎず、人間は終末のときにそこから解放されて真に充実した神の世界に回帰すべきものとされる。しかし、神がそもそも自らの他者であるとしたら、彼岸の世界など存在しないとしたら、終末などこないとしたらどうだろう?デミウルゴスと彼の創造した世界をあえて肯定しなければならないとしたら?そこに開けるヴィジョンは建築家にとって何を語るのだろうか。

同書、p.68。

それでもグノーシス主義では、いつか神の世界に帰ることができると信じられています。しかし最初の断片、磯崎Ⅰを思い出してください。現代ではthe One がはっきりしないまま、つくること=形象産出作業をしなければならないのです。それゆえ、こう問われているのです。

しかし、神がそもそも自らの他者であるとしたら、彼岸の世界など存在しないとしたら、終末などこないとしたらどうだろう?デミウルゴスと彼の創造した世界をあえて肯定しなければならないとしたら?そこに開けるヴィジョンは建築家にとって何を語るのだろうか。

第四段落

④考えてみれば、プラトンの世界像があまりに肯定的であるのに対し、グノーシス主義の世界像はあまりに否定的である。デミウルゴスは、言わばその中間に連れ戻されなければならない。その中間とは西方と東方の中間でもあると言えるだろうか。それはまた存在と空虚の中間でもあると言うべきなのだ。

同上。

『ティマイオス』という本でプラトンによって書かれ、後にアリストテレスがより洗練して記述したのが「プラトンの世界像」、そしてこの断片で描かれたのが「グノーシス主義の世界像」です。

デミウルゴスはその中間で考えられないでしょうか?

なぜなら、ヨーロッパ的なすべてが存在から創造された「プラトンの世界像」も、東方的な「空しい牢獄」である空虚な「グノーシス主義の世界像」も、結局the One を(後者は現世の外に)想定しているということに変わりはなく、the One がはっきりしない場合にはどちらの世界像も考えることができないからです。

しかしデミウルゴスはそもそもどこから来たか?

まず非ヨーロッパ旅行帰りのプラトンが書いたテクスト、次は崩壊する西方のなかに東方が入り込んだ仮晶です。

the One がはっきりしないとき、anyone であるデミウルゴスから世界を考えることはできないでしょうか?これは建築家のデミウルゴモルフィズムにどんな示唆を与えるのでしょうか?

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