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連載小説『濁点』

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太宰治賞の二次で落ちた作品です。
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2024年3月の記事一覧

濁点(9)

濁点(9)

 私はどうしてこんなに陰気なのか。母のように旅行に行ったりせず、外の世界を見ず、花の形も知らず、色も知らず、香りも知らない。外とはいったいなんだろう。なぜ人は外を選ぶんだろう。世界なら、私もずっと見てきた。洗濯物も、陳列された商品類も、捨てられる生ゴミも。すべて私の世界だ。口元を緩めるのは母ばかり。空も、雲の形も、風の音も、たとえ様々な詩歌が私の心を色づけようとしたとしても、私の世界はなに色にも染

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濁点(8)

濁点(8)

 仕事を休んだ時にやっている家事は、もはや私の領分となりつつあるものだから、そう簡単に譲るつもりもない。でも娯楽は違う。母からは奪えない。例えばテレビやスマホになんらかの不具合が生じたところで、新しいものを買えば済むだけの話なのだから、私が作為したところで無意味となるだけ。

 家事は一日の流れの中にあるもので、それぞれの回数だってほぼ決まっている。人は四六時中食事しているわけでもないし、きれいな

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濁点(7)

濁点(7)

「ううん、なんでもいいわよ。まだお腹すいてないし」

 娘は引き下がらなかった。だからパズルゲームから連想された豆と魚をリクエストしておいた。

 いったい娘はどれほど万引きを繰り返しているのだろう。何百、何千とやってきているに違いなかった。なぜ店から、警察から、一度も連絡がこないのか。不思議だったが、それ以上考えないようにしている。娘を突き詰めるのは恐ろしかったし、店に聞くわけにもいかないからだ

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濁点(6)

濁点(6)

 余計なものは入れられていないようだ。かつて、私が娘の食事に洗剤やつぶした虫の死骸を混ぜ入れていたこともあったせいか、同じことをされるのではないかとつい警戒してしまう。けれども料理の味は、いつだって上出来だった。

 食事を終えてテレビをつけると、芸能人の不倫騒動を話題にしているらしかった。私はパズルゲームを続けることにした。

「熱いよ」

 大しておいしくもない甘々のインスタントコーヒー。こぼ

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濁点(5)

濁点(5)

 リビングでテレビを見ていると、あいつがあちこちで掃除機をかけ始めた。ロボットが私の足元をうろちょろしている。私は黙ってテレビの音量を上げてゆく。私の耳が多少悪くなろうとも、あいつが少しでも申し訳なく思ったり、ストレスを感じたりすることのほうが重要だった。ずっと爆音でもいいくらいだが、そうするとあまりに露骨すぎるし、耳の不調を疑われ、行く必要もない病院へ行かされるかもしれないという心配もあった。も

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濁点(4)

濁点(4)

 さあ私の出番だ。今日もうまく盗れたらいいな。端役の騒動が大きければ大きいほど、他の客への注意は無くなってゆく。この、店側の無防備の時間に慣れすぎたせいか、あまり緊張しなくなっていたけれど、警戒を緩めたわけじゃない。動きは最小に、慎重さを欠くことなく、「買い物」という動作の自然な流れの中に「盗る」という不自然を混ぜる。私はマイバッグへひとつ突っ込んだ。誰も、見てはいない。店内の陳腐なBGMが、私へ

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濁点(3)

濁点(3)

 父が亡くなって三年、母はよほど愛していたのだと知った。父を独り占めしようとする母は、父の心が私に向けられるたび、嫉妬からか、陰湿な行為に及んできた。それも、父にバレないよう慎重に、あまりに用心深く。

 学校への忘れ物やちょっとした無くし物に始まり、お出かけした時に迷子にされること、ぎりぎりの深爪、居留守をされて家に入れなかったり、財布にあるはずの小遣いが減っていたり、育てている花を枯らされたり

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濁点(2)

濁点(2)

 私がコインランドリーを利用するのは労力と時間の削減のため。それに、ランドリーのガス式乾燥機は家庭用のものより断然仕上がりがいい。時間が経ってもふわふわ温かなままのバスタオルで体を拭くと、水気をよく吸収してくれる気もするから、ドライヤーの時間だって短縮できているはずだ。

 乾燥機を回しているあいだにスーパーまで買い物へ行く。そうめんは暑い夏に涼しさを与えてくれるから週に二度ほど食べている。しいた

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濁点(1)

濁点(1)

      1

 二十歳になるまでには死ぬんだろうなと思っていた。小学五年生の頃だ。別にビョーキしていたわけでも、自殺願望があったわけでもない。単純に自分があと数年も生きられるという実感がなかっただけ。生きていることが不思議でならなかった。でも、結局、死ななかった。なぜだろう。成人する前に死んでしまう人より、生きてる人の方が多いから、ということならまあそうなのかもね。だって生きてるんだもの。仕方

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