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濁点(5)

 リビングでテレビを見ていると、あいつがあちこちで掃除機をかけ始めた。ロボットが私の足元をうろちょろしている。私は黙ってテレビの音量を上げてゆく。私の耳が多少悪くなろうとも、あいつが少しでも申し訳なく思ったり、ストレスを感じたりすることのほうが重要だった。ずっと爆音でもいいくらいだが、そうするとあまりに露骨すぎるし、耳の不調を疑われ、行く必要もない病院へ行かされるかもしれないという心配もあった。もちろん、掃除に合わせて音量を上げる行為も、それなりに意地の悪さを孕んでもいることは理解しているつもりだ。

 テレビをつけながら、スマホでパズルゲームをするくらいしかやることがなかった。邪魔だ、邪魔だ。なぜ出て行こうとしない。なぜ一人で暮らそうとしない。ここに縋りつくのなら、せめて土下座の一つくらいしたらどうなんだ!

 明日もあいつは仕事を休むに違いない。だったらせめて、私はホテルに宿泊するとしよう。二週間ぶりくらいかしら。これは敗北ではなく、計画だ。いつものように旅行に行ったと思わせ、その裏で私は一人の時間を満喫する。取り残されろ、三級品め。

 スマホで近くのホテルを検索する。羽を伸ばす程度ならビジネスホテルで十分なのだが、それでも一泊一万円を超えていた。

 私はなるべく同じホテルには泊まりたくなかった。泊まるとしても期間を十分にあけることにしている。顔を無駄に覚えられ、いつもありがとうございます、なんて愛想よくされたくなかったからだ。なるべく放っておいてほしい。

 洗濯かばんを抱えて、あいつがようやく出て行った。コインランドリーで洗濯物を乾燥させるなんてふざけた真似をする。なぜ普通に洗濯物を干さないのか。無駄遣いとは思わないのか。なんのために太陽があると思っているのか。

 だから、あいつが仕事に行ったときは、ベランダのハンガーに積もった埃をあいつの服の内側で拭ってから干すことにしている。毎日干していればそんなことはせずに済むんだ。私はまったく悪くない。

 ここに一人になってからは、やっておかなければならないことがある。娘がなにか余計な策を弄していないかの調査だ。掃除機をかけた場所は入念に、そしてどこかにカメラがないかの確認も怠らない。幸い、これまでなんらかの痕跡を発見したことはなかった。とは言え油断するわけにもいかない。あいつは狡猾だ。油断の隙を必ず付いてくる。だからこちらもカメラを設置することはためらわれた。言い訳のできない決定的な証拠を残せば、もはや私の居場所は無くなってしまうだろう。設置さえさせなければそれでいい。

 チェックが無事に終わればようやく私の時間だ。帰ってくるまでには三十分ほどあるだろうか。テレビを見ながらパズルゲームのアプリをタップした。このゲームは難易度も高く、クリアしてもクリアしても延々と続くため、何年でも遊べるような気もしている。クリアの喜びは一瞬だ。次のステージではまた同じようにつまずき続けてしまう。なかなかうまくはいかない。ピエロみたいなキャラクターに怒りをぶつけたくなることもしばしばあった。それでもどうやらゲームをすること自体がストレス発散にはなっているようで、そのためになかなか手放せないのも事実だった。

 ゲームは人生以上に難関だらけかもしれない。そんなふうに作られている。その難関は人生と比べても本当に石ころみたいに小さなものなのに、人はつまずき続ける。あと何年、こんなことを繰り返すつもりなのだろう。そう、きっと、死ぬまでだ。

 満足に遊びきれてもいないうちに忌々しい娘が帰ってきた。買い物袋や洗濯かばんを置く所作ががさつに見える。どうしてこうなのか。

「しいたけと玉子とハム入れるね」

 そんなもの、勝手にすればいい。

「明日、金沢行ってくるから」と返事した。

「また?」

 また? だって? お前のせいだろ。

「そう。もういっそ住みたいくらい」

 お前が消えれば済む話だ。

「この前は倉敷に住みたいって言ってたくせに」

「あら、そうだったかしら?」

 お前が出て行かないから、場所を問わず「住みたい」とそう言わざるを得ないんだよ。「何処に」なんてなんていちいち覚えているわけがない。そもそも旅行好きのもっともらしい感想だろうに。

 いつの間にか、言葉の終わりで口角を上げることは自然とできるようになっていたものの、目だけは笑えない。スマホやテレビはそれを隠す役割を果たしてくれてもいた。

 食器を選んでいるらしい娘の背中が見える。未だにお土産と信じているようだ。どこにでも売っている食器程度で騙されて、家の中にこもってばかりいるから世界を知ることもない。なんて憐れな子なんだろう。

 ソファから立ち上がる時に、なんだかこれまで感じたことのない眩暈がした。もしこれが病気の前兆なら、そろそろか。

 テーブルの上に並べられた昼食をざっと見た。ぐるりと巻いためんの傍らに、透き通った丸い氷がいくつか添えられていた。料理人にでもなっていたなら、少しはまともな人生を送れていたのかもしれないのに。

「いつもありがとうね」

 余計なことばかりしてくれて。

 娘が疎ましい。とは言え、そうめんは私の好物でもある。夏には欠かせない食事だった。めんは細ければ細いほど、つゆは濃ければ濃いほど良い。

「テレビは消してよね」

「あら、ごめんなさい」

 食事中はテレビを消す、などと余計な躾けをしなければよかった。無音の空間ほど息苦しいものはない。

「金沢のどこに行くの?」

「さあどこかしら。ついて行くだけだからねえ」

 気になって仕方ないのか、旅行など行きもしないくせに。

「日帰り?」

「まだ決めてないみたい」

「一泊くらいしてゆっくり楽しんでくればいいのに」

「それはそれでけっこう面倒なのよねえ」

 お前がな。

「住みたいとか泊まるのは面倒とか、ずいぶんと気まぐれね」

 だからお前のことだよ。

「このそうめん、香りもいいし、とってもおいしいわ」


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